戦前、日本のことを欧米語で発信した人は多くない。思い起こすのは新渡戸稲造と内村鑑三、岡倉天心、鈴木大拙。そして賀川豊彦がいました。
 『武士道』の新渡戸稲造は説明する必要もないでしょう。台湾の李登輝元総統が言及し始めてこの10年、日本でも見直しが進みました。100年前に日本の一番大切な心を英語で発信しています。ルーズベルト大統領ほか多くのアメリカの政治家が『武士道』を読んでいました。台湾総督府で農業開発に取り組み、京大、東大で教鞭をとり、国際連盟の事務局次長を長年こなした国際人です。今でも日本の心を理解するための導入本が『武士道』ということになっているようです。
 岡倉天心は日本の美術を世界に紹介し、東洋の美術を世界の人々に広めました。『茶の本』は日本の心を伝え、『アジアの理想』は「アジアは一つである」という言葉を生んだのです。もちろん全文英語で書かれました。われわれ日本人が読むのはあくまで翻訳本です。天心は自らが創立した東京芸術学校を短期で追われましたが、毎年、ボストン美術館と茨城の五浦(いづら)の自宅兼アトリエを往復しながら、多くの画家を育て、ボストンに東洋美術の拠点を築いた功績は大きいと思います。
 賀川は日本の誇るべき歴史はほとんど発信していません。いち早く欧米で翻訳された『死線を越えて』はスラム物語です。日本の一番貧しい地域の一つに住みながら、自らの日々の葛藤を小説という形で表現しました。賀川が他の人違うのは、世界について語ったことです。日本のことだけではなく、世界はこうあるべきだ、地球はこうあるべきだ、実は宇宙はこうあるべきだということまで発信しています。
 新渡戸や天心と比べると賀川の活動の範囲はとてつもなく広いのです。ジャーナリストの大宅壮一は賀川豊彦について田中芳三編著『神はわが牧者』「噫々 賀川豊彦先生」の中で賀川を追悼しています。
 明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベスト・テンを選んだ場合、その中に必ず入るのは賀川豊彦である。ベスト・スリーに入るかも知れない。
 西郷隆盛、伊藤博文、原敬、乃木希典、夏目漱石、西田幾太郎、湯川秀樹などと云う名前を思いつくままにあげて見ても、この人達の仕事の範囲はそう広くない。
 そこへ行くと我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点でもある宗教の面はいうまでもなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。
 私が初めて先生の門をくぐったのは今から40数年前であるが、今の日本で、先生と正反対のような立場に立っているものの間にも、かつて先生の門をくぐったことのある人が数え切れない程いる。
 近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙しうる者を一人あげよと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。かつての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物――、それは賀川豊彦先生である。(田中芳三編著『神はわが牧舎』、クリスチャン・グラフ社)
 賀川豊彦のことを学んでいて、なぜ賀川にこれほど魅了されるのか問われることが多い。賀川研究のため1980年代に日本に留学、帰国後に『賀川豊彦』(2009年8月、教文館)を書いたカールハインツ・シェルはまえがきで、「私は圧倒され、この愛の革命家の生き方に何も言えなくなるほどの感動と共感を覚えた」と書いいています。私もまさに「この人だけにはかなわない」という思いがあり、「何も言えなくなるほど」の共感があったのです。