2月、氷雨が降る中、大黒屋光太夫のふるさとを訪ねた。津から伊勢若松まで近鉄列車に乗って、コンビニも食堂もない駅前を歩き始めた。金沢川を北に渡って小さな露地に入ると、「大黒屋光太夫の供養碑」という小さな目印があった。少し歩いた若松小学校の校庭にロシア服を着た小ぶりの光太夫像もあった。小学校に資料館もあったが、休日で休館だった。
 その後、立派な資料館が建てられ、町を挙げて光太夫を顕彰しているが、2004年の2月当時、光太夫を偲ぶよすがはそれだけしかなかった。 井上靖氏が光太夫を主人公として小説『おろしや国酔夢譚』を読んだのは随分とむかしのことであるが、16歳の多感な時代に読んだ忘れられない1冊となっている。南アフリカのプレトリアから帰国したばかりだった。
 主人公の光太夫は白子若松の船頭で、江戸時代、ロシアに漂流。苦節十数年、エカテリーナ女帝に拝謁してようやく帰国の願いがかなうが、恋い焦がれた日本で再び自由を失う。 鎖国を国是としていた幕府にとって光太夫は招かれざる「客」だった。光太夫はラックスマンに伴われて松前に到着したが、その後、番町薬草植付場に幽閉され、外部との接触を断たれた。
 一緒に帰国した磯吉に「俺たちはなんで国に帰りたかったのか」と問う場面がある。「俺はな、俺は、俺はきっと自分の国の人間が見ないものをたんと見たんでそれを持って国へ帰りたかったんだ。あんまり珍しいものを見てしまったんだ。それで帰らずには居られなくなったんだ。見れば見るほど国へ帰りたくなったんだな。……だが、今になって思うと俺たちの見たものは俺たちのもので、他の誰のものにもなりやしない。それどころか、自分の見て来たものを匿さなければならぬ始末だ」
 当時、南半球の地の果てで白人による有色人種差別が厳然とあった。400万人の白人がその5倍の黒人たち有色人種を支配する時代錯誤がまだあることに大いなる絶望を見た。そのことを知らせたくて日本に帰った。待っていたのは自らの体験を隠さなければ生きていけない日本という閉鎖社会だった。『おろしや国酔夢譚』を読んで、「江戸時代も今も日本は変わらないじゃないか」という思いが募った。
 光太夫やは70歳過ぎまで生きたが、日本人との接触をほぼ断たれたまま、半生を送った。唯一、桂川甫周によって、光太夫らの奇数な体験は書き留められ、「北槎聞略」という書き物として残った。江戸時代、この書物は公表されることなくお蔵入りとなっていた。井上靖氏なかりせば、光太夫の物語は日の目を見ることなく、白子の人たちにもまったく知られないまま埋もれていたかもしれない。
 白子そのものが、現在は鈴鹿市の一部となってその存在が埋没しているが、江戸時代は回船問屋が多く集積する伊勢の主要港だった。白子港は紀伊和歌山藩領だった。江戸時代にこうした飛び地は多くあった。三重県の南半分が紀伊だったことはすでに書いた。実は松阪も白子も紀伊徳川領だったのだ。藩主の参勤交代は和歌山から山越えで伊勢に出て櫛田川を下って松阪に出て、さらに陸路を白子まで北上して、船で知多半島に渡ったとされている。なぜ難路を選んだのか分からない。大名行列で使われる多額の路銀はなるべく自領内に落とすべきだと思ったに違いない。
 伊勢は木綿織物の有数の産地だった。江戸のコットン・ファッションは伊勢に支えられていたといっても過言ではない。織物の他にプリント地の反物もあった。そのプリントの図柄を厚紙でつくっていたのが白子の職人たちだった。伊勢型紙といった。白子の職人たちは毎年、新作のデザインを描き全国の染色屋が競って購入したのだという。江戸家上方の反物屋は白子をコットン・ファッションの発信地だと認識していたはずだ。 『おろしや国酔夢譚』は光太夫の回船の積み荷は米のほか「木綿、薬種、紙」などだったと書いている。(伴 武澄)