環境という概念が国際政治経済の課題とした浮上したのは、1989年の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)だった。4月に日本経済新聞が一面で「サミットのテーマとして環境」を書き、仲間を驚かせた。
 当時、公害は大気汚染や農業の土壌汚染を通じて社会問題化していたが、地球温暖化という問題意識はなかった。同時にサミットの共同宣言に「持続可能な発展」という文言が盛り込まれた。社会主義陣営の崩壊とともに先進諸国は新たなミッションを背負うことになった。
 経済問題を討議するサミットになぜ「環境」なのか、正直よく分からなかった。
 外務省の官僚に聞くと、「緑の党だ」という。

 オランとドイツに緑の党が政党として躍進していた。オランダは海抜ゼロメートルの国で、海水面が上昇すると国土が失われる危機がいつもある。ドイツではシュツットガルトの森が酸性雨で枯れてしまった。原因は隣国ポーランドのクラコフにある大型石炭火力だった。工場が排出するガスには国境がない。緑の党が両国で躍進していた理由をこう説明してくれた。
 国会でその緑の党の発言力が増してきて、国際社会で環境問題を議論せざるをえなくなってきたというのだ。分かったような分からないような説明だった。
 環境問題を考える重要なキーワードの一つに「持続可能な開発」(sustainable devrlopment)がある。世界的な環境問題への関心の高まりと、このキーワードには大いに関連がある。この言葉が広まったのは1992年のリオデジャネイロでの地球環境サミットからだった。世界各国の首脳が参加しただけでない。世界各地から参加したNGOにも発言権が与えられた会議としても注目された。つまり世界の問題はもはや政府だけでは決められずに非政府組織であるNGOの参画が要請されたのである。悲しいことに日本だけがこの会議に首脳を送らなかった。
 そもそも「持続可能」という新しい概念を生み出すきっかけをつくっていたのは日本だった。
 1987年、通称「ブルントラント委員会」と呼ばれた国連の「環境と開発に関する世界委員会」(委員長・ブルントラント・ノルウェー首相))が発行した「Our Common Future=邦題『地球の未来を守るために」と題した最終報告書での中心的な理念が「持続可能な開発」だった。生みの親はブルントラント首相だったが、この委員会設置を呼びかけたのは日本政府だったのだ。
 残念なことにこの間、日本の首相は中曽根、竹下、海部、宇野、宮澤と5人も代わっていた。
 環境のうねりはリオサミットを契機に地球規模に広がり、二酸化炭素の削減目標を掲げた1997年12月の京都議定書へと続く。環境問題で大きなターニングポイントに首相を送り込まなかったため、国内でのリオサミットの評価はNGOが跋扈した国際会議ぐらいの認識しか生まれなかった。