一升瓶のなぞを追い求めて、ようやく一冊の本に出会った。山本孝造著『びんの本』(日本能率協会。1990年)。筆者の山本が書いているように「壜が変遷してきた流れをひとまとめに整理した日本の書物がほとんど見当たらない」。
 ビールやワイン、清酒に関する本はそれこそ「ごまん」とある。しかし、どんな飲み物も運ぶ容器と飲む容器がないと存在しないも同じである。容器についての体系的な書物がないということは食べ物、飲み物についての歴史に画龍点睛を欠くに等しいと言わざるを得ない。
 容器の歴史は実は奥が深い。先月、中国に行った。目的は「お茶」だった。上海のお茶の問屋街を訪ね、急須(中国では茶壺=チャーフー)製造の町「宜興」(イーシン)、そして龍井茶の産地である杭州をぐるっと回ってきた。お茶は元々はやかんで煎じて飲んでいたものが、粉末の抹茶となり、再び「急須」に入れて飲むようになった。
 ここでも容器に関心があった。いつから急須を使い出したのか。また「茶壺」が日本で「急須」と呼ばれるようになったのはどうしてか。そんな疑問が解ければいいなと思っていたが、ついに解明できずに旅は終わった。
 蒸気機関はワット、電球や蓄音機はエジソンが発明した。近代技術の始まりの多くは正確な記録が残っているが、近世になると物事の始まりはおぼろげになる。日本では明治時代でさえ、おぼろげな部分が少なくない。人々の記憶から消え去っている「始まり」が数多く残っている。
 『びんの話』はそういう意味で大変な労作である。山本はソニーの従業員デザイナー第一号として、トランジスタラジオのデザインを担当した人である。その後、独立してデザイン事務所を経営するかたわら、瓶の沿革を調べ始めた。数々の書籍や雑誌の断片的記述からこつことと事実を拾い集め、瓶の変遷を一冊の書物にまとめ上げた。
 興味のない人にとっては「それがどうした」という書籍ではあるが、筆者にとってはめくるめく世界があった。特に「一升瓶の誕生へ」は目からうろこの驚きがあった。
 『びんの話』によると「明治19年(1886)10月7日の「東京日日新聞に、日本橋区大門通弥生町の岡商会は”日本酒販売改良広告”を掲げた。・・・当社では、このほど各地の酒造元、中でも日本酒で有名な今津、灘、西ノ宮などの醸造本場と特約を結び、洋酒のように大中小の壜詰を一手販売することにした」と書いている。
 断定はしていないが、日本酒を瓶詰めで販売した嚆矢は、日本橋の岡商会だったようである。「大壜詰は代価金12銭、空壜は金2銭」とある。「一升瓶」だったのかは分からないが、多分そうなのだろう。既に江戸時代には「一升徳利」があって、樽売りの際の一番大きな容器として使われていたからである。
 当時のガラス瓶は人工吹きといって、手作業で型にガラスを流し込んで「吹いて」いたから、ガラス瓶は貴重品だった。だからガラス瓶の対価は価格の6分の1にも及んでいた。しかし、瓶詰清酒は「混ぜ物」がないことや「薄める」ことができないことから、商品の信用力を高め、明治30年代に入ると「澤の鶴」や「白鶴」などが一升瓶の清酒を相次いで売り出し、一合、二合、四合の各種瓶が出回ったという。
 機械で吹いた最初の一升瓶は、大阪天満の徳永硝子製造所だった。二代目の徳永芳治郎は、大正11年(1922)に弟二人をアメリカへ派遣し、ニュージャージー州ハートフォードのハートフォード・フェアモンド社から、40万円で製瓶機械を購入した。徳永硝子では半人工機械吹きの一升瓶を白鶴などに納入していたが、その見本を見せて「このサイズができる全自動機械が造れないか」と相談した。フェアモンド社では一升瓶ほどの大容量のものを造る自動機械はまだできていなかったが、同社も「大いに関心を持ち」、徳永兄弟が注文した新しい機械は「ガロン・マシン」と命名された。
 翌大正12年9月に関東大震災があり、数多く出回っていた一升瓶はほとんどが破壊もしくは溶けてしまっていたから、徳永硝子が13年から開始した全自動機械による一升瓶づくりはただちにフル生産に入ったのだという。それまで職工13人が10時間で3000本吹くのがやっとだったのが、全自動機械は1台あたり24時間で2万1500本も製造できたから、能率は38倍も上がったことになる。
 一升瓶の清酒が加速度的に全国の家庭に普及したかげには徳永硝子兄弟の先進的な経営判断があったといっても過言ではない。(伴 武澄)