国宝 仏頭(旧山田寺講堂本尊) 飛鳥時代・7世紀 奈良・興福寺蔵
 山田寺の仏頭にはことさら思い入れがある。大学入試に失敗して浪人していた時、初めて一人で飛鳥周辺を旅したときに出会った。旅の道しるべは岩波新書 『奈良』((直木孝次郎)と高校の日本史教科書の2冊だった。とりあえず教科書に載っている仏像を手掛かりに仏教の旅を始めようと思った。順番で行くと飛 鳥寺の大仏の次に拝観したことになる。
 高校日本史の教師は渡辺忠胤先生だった。まことに達筆な方で、黒板に書く文字も流れるようだった。それだけで授業を受ける価値があった。また先生は歴史 を旅の中の出来事のように解説した。授業を聞いていて、あそこも行きたい、あそこも訪ねたいと思うようになった。筆者の旅好きは多分に渡辺先生の薫陶のお かげと思っている。
 当時、凝っていたのは寺院の「伽藍配置」の意味だった。飛鳥寺方式が一番古く、順に四天王寺、法隆寺、薬師寺 などを覚えた。山田寺跡には巨大な寺院であった証拠の礎石が残っている。ただその石の並びが見たいために山田寺跡を訪れた。その礎石の並びから伽藍配置を 容易に想像できるからである。
 そもそも仏陀は偶像の崇拝を禁止した。キリストもマホメットも同じことを弟子たちに言ったが、守られたのは回教においてだけだった。偶像崇拝を禁止され たインドの初期の仏教徒たちは舎利や仏足跡をおがむようになった。舎利はブッダの骨である。インドでは仏舎利を納めるスツーパが仏教寺院の中核的存在と なった。初期的なスツーパは盛り土や石積みの上に五輪を飾ったものだった。
 やがて盛り土の下に立派な基壇が誕生した。基壇は3段、5段と高くなり、日本では三重塔、五重塔となった。だから日本に伝わった初期の伽藍は「塔」が中 心となった。仏教が哲学的進化を遂げるなかで仏教の信仰は舎利から仏像へと変遷し、仏像を安置する本堂や金堂が伽藍配置の中心となっていく。
 飛鳥、白鳳、天平と日本の仏教建築は発展するが、たかだか100年の変遷史の中で舎利信仰の「塔」中心から塔そのものが「飾り」となる重要な変遷をみることができる。奈良の寺院を訪ねながら、伽藍配置の変遷史に身を置くことができるのが楽しかった。
 この仏頭を本尊とした山田寺は蘇我倉山田石川麻呂の氏寺だった。大化の改新で中大兄皇子、中臣鎌足側についたが、後に謀反の疑いをかけられ自害する。やがて疑いは晴れ、 天武14年(685)に天皇は亡き蘇我倉山田石川麻呂のために山田寺を建立した。
 時代は移り、山田寺の本尊は鎌倉再興期の文治3年(1187)に東金堂本尊薬師如来像として迎えられたが、応永18年(1411)に堂とともに被災。そ の後、行方が分からなくなっていたが、昭和12年に現在の東金堂本尊の台座の中から頭部だけが発見された。応永22年(1415)に再興された現東金堂本 尊台座の中に納められた記録が残っていたため、白鳳仏としての造立年代も明らかにされた。
 少年のような若々しさがいまも伝わり、早熟な大和朝廷の時代背景と重なる造形は筆者自身の青春期の思いとさらに重なる。(伴 武澄)