大分前のことだが、マカオの古銭商で「大日本国貿易銀」という名の銀貨を買った。発行は明治9年(1877年)。通貨単位が表記されていないのが不思議だったが、「TradeDoller」とあるからドルのことである。当時、日本では円ではなくドルを発行していたのだろうか?
 また英字で「420Grains.900Fine」と刻字されてある。fineは品位のこと。1grainは0.0648グラムだから27.216グラム。当時の銀の国際市況でいえば、1グラム=22円だから、約600円の価値の銀貨である。値段は当時の邦貨にして約4000円だった。約600円の価値の銀貨を4000円で買ったのだからバカみたいな話だが、筆者にとって通貨を考える基礎となっている。
 古銭商のガラスケースには、大日本国「1圓銀貨」や広東省や福建省造幣廠発行の「1圓銀貨」なども陳列されていた。明治時代の日本の通貨単位は「円」ではなく「圓」と書いた。「円」に変わったのは戦後である。マカオの古銭商にあった銀貨はどれも同じ大きさで品位も同じである。明治時代に1ドル=1円だった意味が氷解した。現在の中国の通貨は「元」。かつては「圓」と呼んでいた。明治政府は中国にならって銀貨の単位を圓としたのであろう。なるほど「円」も「ドル」も「圓」ももともとは銀貨の単位だったのだ。
 ちなみにポンドは今でも重さの単位。英国ではシリングが銀貨の単位で、フランスではフラン。実はロシアのルーブルは銅の単位である。ドルという呼び名の由来は現在のチェコのプラハ東部にあるクトナホラ(Kutnahora)銀山にある。1995年、当地を訪れた際のガイドの説明では「メキシコ銀が見つかるまでヨーロッパ最大の銀鉱山であり、ハプスブルグ家の富の源だった」らしい。クトナホラで鋳造された銀貨をドルと呼んでいたのだ。
 この銀山の存在を抜きにハプスブルグ家による長年のヨーロッパを支配は考えられない。その後、スペインが隆盛を極めたのはメキシコ銀のおかげである。ポルトガルは、メキシコに次ぐ世界の銀産地だった日本の銀流通を一時支配したが、鎖国で日本との貿易から外された。銀貨の大量流通は、歴史に貿易の拡大をもたらした。筆者の持論である。金はあまりにも稀少で貿易を賄うには流通量が足りなかったが、銀は産出量、価値、重さの三点で国際的貿易の対価としてぴったりだった。
 近代国家の多くは金を基軸通貨にしていたが、19世紀になっても国際貿易で実際に流通していたのはこの貿易銀だったのである。今のように銀行間の決済システムが完備していない時代である。江戸時代の日本では三井などの両替屋があり、江戸と京都や大阪との間の商品取引で現金は必ずしも必要でなかったが、国際貿易では銀貨が中心だった。
 
 金兌換紙幣の時代に存在しなかった為替相場
 金も銀もいまでは国際市況商品となり、日々の価格が需給によって変わる。しかしどんなに変わってもかつてのロシアのルーブルやインドネシアのルピアのように10分の1になったり、100分の1になったりはしない。希少価値があり、一定の大きさに鋳造できることが通貨となる前提だった。
 紙幣は、もともと金や銀を担保として発行された。国家権力が発行する「証書」だから通貨と呼ぶ。香港ドルのように3つの純粋な民間銀行が発行している稀なケースもないわけではない。この種の証書を民間が発行すれば「小切手」とか「手形」だとか呼ばれる。あくまで決済の代用品だった。かつての紙幣は金兌換券である。国が金に交換することを約束していたから、「為替相場」などありようがなかった。貿易銀が国境を越えて流通していた。
 それがいつの間にか、為替相場が生まれた。金や銀の担保が十分でない通貨(紙幣)の発行が横行したからである。明治時代に1ドル=1円だった日本の通貨が第二次大戦前には1ドル=3円になり、戦後には360円になったのは日本銀行が発行する通貨の担保力がそれだけ足りなくなっていったからだ。
 ちょっと難しいが、国が発行する紙幣と民間企業が発行する手形と実は似た関係にある。日本語で紙幣と手形は違うことばで表現されるが、英語では同じである。手形はnotes、bill、draft、紙幣もnotes、bill、draftである。日本の紙幣には「日本銀行券」と書いてある。英語ではBankofJapanNotesである。だから日本銀行という「企業」が発行した手形もしくは証書と考えれば分かりやすい。というより日本銀行もまた企業なのである。一応、国営ということになっているが、大蔵省は株式の過半しか保有していない。店頭市場に株式を公開しており、後の株式は民間企業や個人が保有しているのである。(続く=伴武澄)

 日本最初の紙幣として生まれた「山田羽書」