明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベスト・テンを選んだ場合、その中に必ず入るのは賀川豊彦である。ベスト・スリーに入るかも知れない。
 西郷隆盛、伊藤博文、原敬、乃木希典、夏目漱石、西田幾太郎、湯川秀樹などと云う名前を思いつくままにあげて見ても、この人達の仕事の範囲はそう広くない。
 そこへ行くと我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点でもある宗教の面はいうまでもなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。
 私が初めて先生の門をくぐったのは今から40数年前であるが、今の日本で、先生と正反対のような立場に立っているものの間にも、かつて先生の門をくぐったことのある人が数え切れない程いる。
 近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙しうる者を一人あげよと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。かつての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物――、それは賀川豊彦先生である。
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 大宅壮一の賀川豊彦素描 加山久夫
 大宅壮一は少年時代に賀川豊彦と出会い、彼からキリスト教の洗礼を受けている。彼はしかし、『「無思想人」宣言』において、知識人の「帽子」としての思想を捨てるとともに、宗教についても、「無宗教で生きていくつもりである」と宣言し、つぎのように述べている―「宗教の力、信仰の熱度とともに、イントレラント(非寛容)な性格は原則として高められていくものである。それを抑えていくことが〝共存〟の必須条件である。だが、他宗他派に対して極度にトレラント(寛容)な宗教は、もはや宗教でなくなっている場合が多い。そこで〝共存〟のための最上の条件は、宗教そのものをすてることだということにもなるわけだ。」(一三一頁) では、大宅壮一は、いったい賀川豊彦を どう観ていたのであろうか。興味のあるところである。両者は近隣に住み、終生互いに交流があったようであるが、賀川が大宅をどう見ていたのかについては、 これまでのところ記録は見出されていない。しかし、大宅が賀川について書いたものはいくつか残されているので、それらを本稿で紹介することにしたい。

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