1945年8月30日付け読売新聞に賀川豊彦が投稿

 2003年、アメリカはイラク戦争を「衝撃と畏怖」と命名した。1996年にアメリカで発行された同名の軍事理論の研究書名に由来するのだそうだ。戦争をいかに短期間で終結させるかを研究した内容で「核兵器を使用せずに、広島と長崎への原爆投下が日本人に与えたのと同等の衝撃を敵に与えれば、戦意を奪い」早期に戦争を終結させることができる、などと論じられているという。
 アメリカはまさにイラクはおろか全世界を「畏怖」させたかったに違いない。58年前、日本は広島への一発でアメリカに「畏怖」してしまった。ポツダム宣言受諾による「無条件降伏」である。
 そのアメリカの畏怖作戦に服さなかったただ一人の日本人がいた。賀川豊彦である。国家存続のためにあらゆる屈辱を飲み込む覚悟を決めた日本で、厚木飛行場に降り立ったばかりのマッカーサーに敢然と意見したのだから普通でない。この賀川の思いを新聞の一面をつぶして提供した当時の読売新聞の編集者もまた勇気ある人物だったに違いない。
 最近、入手した昭和20年8月30日付けの読売新聞に掲載された賀川豊彦のコラム「マッカーサー総司令官に寄す」を以下に転載する。(2003年08月07日)

 マッカーサー総司令官に寄す

 マッカーサー総司令官閣下
 日本は八月十五日、敗戦国の烙印をおされた。これは厳然たる事実であり、疑うべかわざる現実である。
 陛下の詔書の一分前まで全国民の戦意は燃えに燃え陸海空三軍の銃口が一様に貴官各位の胸に向けられていた事も事実なのです。
 この相反した事実が陛下の詔書によってピタッと一変して日本は次の時代へ進行しはじめたのです。私は先ずこのポイントから話さなければならない。

 総司令官閣下
 貴官は去る28日の厚木進駐の指揮者から進駐が平和的に日本側の満足すべき心づかいの中に先遣部隊の進駐を終了した報告を受けられたでしょう。
 そして閣下は多数の日本人を眼前にされたでありましょう。そしてまたその日本人が口をキッと結んでいる表情に気がつかれたことと思います。
 日本人は最後まで戦うつもりでいました。おそるべき原子爆弾がやがてわが身に落下するということを予想し覚悟しなかった者は只一人もありますまい。またたとえ身は焼かれても粉砕されても戦争は陛下の指揮のあるまで続けてゆかなければならぬことを毛程も疑った日本人は一人もなかった事も事実ですが、それが、陛下の詔書によって戦争から平和へ完全に変向しました。その決意の固さと新しい理想へ出発への努力が閣下の見られる日本人のキッと結ばれた口もとの表情なのです。この様な民族が、国家が他に例を見ることができたでしょうか。

 総司令官閣下
 貴官は日本進駐の第一夜をこの点についてよくお考えください。
 私は明治維新の例を引いてみましょう。過去260年間、日本の政権を担当した徳川幕府は官軍に押されてヂリヂリ東京に押しこめられました。しかし徳川幕府といえ東京以北には官軍に拮抗するだけの兵力があったのです。ここで若し戦えば日本全土は内乱のるつぼと化し、恐らく数年の間、国民は流血と困窮の惨を見なければならない。一報、眼を外に向ければ欧米の諸国は文明の開発人類福祉に日も尚足らずの有様です。幕臣の勝海舟は官軍の西郷南洲と相談し、明治天皇の御聖断によって日本は内乱の危険をまぬがれて、そのまま、世界文明への参加に出発したのでした。

 マッカーサー総司令官閣下
 日本国民はこういった国民なのです。
 御考へのまにまに生きてゆくのです。
 陛下はあの御詔書でこの戦争の国民に及ぼす困難を奪い御身を以てお受けになられました。国民はこの詔書を拝して泣いてわが身を懺悔しないものは一人としてありませんでした。貴官は有力な軍人や愛国の人々が文字どおり腹を切った事を御存じでしょう。これはその良否は別として、陛下の御聖恩に対する申訳なさに自殺したのです。他の国民は只従来の自分の行為が、陛下の御期待に副い得なかったのを悔悟してその自責の心を、陛下の御明示の如く世界文化への貢献、世界平和への奉仕へと直ちに回心したのです。
 印度のアソカ王はかつては侵略主義的好戦的な血に狂う大王であった。しかし彼は佛陀の教えを聞いて争闘による統治から「法」のよる統治へ転換しました。「法」は狭い意味の法律や規則ではなく世界の真理、人類の道徳を指したものです。これによって東はビルマ、印度の北嶺、西は地中海の浪にあらわれた彼の国土にはさん然たる文化の花が開いたのです。
 歴史あって以来、今度の御詔書はアソカ王にもまさる千古不磨の金文字であると私は信じます。世界文化史の著者ウエルズは世界の四聖人として釈迦、キリスト、孔子の他にアソカ王を加へていることは閣下の御承知のとおりである。
 ウエルズは前大戦の終局後、アメリカの合州組織を手本とした世界機構を考えた。これがヨーロッパ方面にも影響を与えて今度のサンフランシスコ会議の結論となってきたと見られる。しかしウエルズの史眼を知り、彼の精神をふりかえってみるときに、サンフランシスコ会議には一つの欠点があると思う。

 総司令官閣下
 私は素直に閣下に言わなければならぬ。
 1936年私は時の大統領より渡米を促された。当時アメリカに充満した1600万の失業者の問題の解決であった。一夕、ウエルズ副国務長官の家においての集会で、私は現トルーマン大統領やホイラー上院議員等とともに談じた。私はその時も国際協同組合を提唱し彼等の賛意を得たのです。
 サンフランシスコ会議の31の結論、国家の安全保障、国際裁判、国際警察の設立はこれだけでは日本をはじめ多くの失業国家を見出すだけであろう。それだけでは世界は余りにも窄き門になる、武力を解除され傷ついた上に厖大な賠償品を要求された敗残の身が精神的な友好の手の差しのべがなくて、どうして再起できるであろうか。やがては墜落から没落へとおちゆくことは必至である。貴官達の理想とする新しい世界国家にははいろうとしてもはいれない羽目におちいるであろう。

 総司令官閣下
 日本はサンフランシスコ会議の理想とする新しい世界から脱落するというのではない。苦しみながらついて来させるより心を開いて迎え入れた方が世界の運営に貢献し得るものだということは聡明なる総司令官の容易に理解される事と存じます。その心とはなにか具体的にいえば、国際協同組合の設立です。
 マンチェスターにおいて28人の紡績工がふところから金を出し合って人間愛による相互援助の社会をつくった。この協同組合をつくった歴史を語る必要はありますまい。ただこの組合の精神と設立が戦いに疲れた国家と国民をして、いかにして世界文化の進展に貢献したか例を引きましょう。
 スウェーデンは200年前、西欧では最強国であった。然るに30年戦争の結果、国力は疲弊し国民は散亡し、あまつさえ二人の国王までが外地で戦死してしまった。かかる戦後に来る政策はスウェーデンに於ても世界文化への貢献であり、人類福祉への奉仕であった。ここに皇室の下、労働党政権は協同組合の政策を全面的にとり入れたのである。
 その結果、世界の人々が北欧に見たものは、何であったか。植物学のリンネの名であり、結晶学のゴールドシミット、原子物理学のアングストロング、支那学のアンダーソン、探検家のヘデン等の錚々たる文明開発の恩人の名であった。そして又、彼等は僅かに1年で犯罪者を1100人−主として外来人の殺人犯9人をスウェーデンで見たのみであった。牢獄は美術館と化し博物館に転用された。製粉工場の床はモザイクではられ、ベルサイユ宮殿にもたとえて比較されたのである。この国内の愛の精神はノルウェー、デンマーク、フィンランドの隣国にも精神的なつながりを見出した。彼の優秀なスウェーデンの電球はこれらの国家の何のかけ引なしに頒ち与えられている。
 更に、我々にはノルウェーの国歌を聴こう。「よき友よ、スウェーデン援助の為に…」という国歌の冒頭の讃歌はかつての日露戦争終了の時から歌われている。当時ノルウェーはスウェーデンの属国の位置にあったが、ロシアの圧力が日露戦争の敗北によって減少すると、スウェーデンに独立の希望を伝えた。スウェーデンは直ちに許可したのであった。

 総司令官閣下
 戦勝国は広い心と思いやりがなければなりません。日本はいま詔書のお示しのままに立派な世界国家として出発しようとしています。これに対して徒らに小さいわくの中に幽閉しておくのは貴官等の理想とはるかに遠い結果を生むでしょう。日本人の陛下に対するこの心情と人間としての実力とをもり育ててやるならば、日本の新世界奉仕の出発は予想より、はるかに強力になされるでしょう。
 閣下の外人収容所に対する給与品の投下物は正しく浦和に投下されました。しかしそれを受け取った人達は熊谷の戦災者達にそれを贈りました。これは何を意味するのでしょうか。力で治めるよりも心でゆく千古の心理を例示するものです。
 願わくば閣下よ、日本人の特質を活かし新文化新世界へ邁進する日本に拍車をかけるととも、力の鞭を揮うなかれ。それがサンフランシスコ会議のかっけを実現するもっとも重要な具体的な方法だと信じて止みません。