白旗桜と孫文

 先週末の昼下がり、文京区の白山神社を訪ねた。白旗桜があると、佐藤俊樹著『桜が創った日本』にあり、ぜひとも満開のとき、自分の目で確かめたかった。
 源氏の棟梁、義家が奥州に向かう途上、白山神社の前でサクラ木を見つけ、源氏の白旗をたてかけて、この地から岩清水八幡宮に戦勝を祈願した。そんな伝説から神社前のサクラ木を白旗桜と呼ぶようになったという。
 現在の白山神社は都営地下鉄「白山駅」を降りてすぐのところにある。昔は奥州街道沿いにあったものだろう。境内には2本の白旗桜が満開だった。サクラの種類はオオシマザクラ。白い花びらに白旗をかけたものだろう。ソメイヨシノばかりの東京にあって一味違う趣きがいい。
 サクラはサクラとしてよかったのだが、実はもっとおもしろい発見をした。
 白山神社の入り口に孫文の碑を発見したのだ。
 なぜ、ここに孫文の碑があるのか。社務所のベルを押した。おかみさんと思われる人が出てきて、なるほどそうだったのか合点した。
 昭和43年度の総代会で総代の中から、「孫文と宮崎滔天の腰掛けた石がある」との話が持ち上がり、翌年、滔天の子息宮崎龍介氏を招いて話を聞いたところ次のような話があったのだそうだ。
「明治43年5月中旬の一夜、孫文は滔天とともに境内の石に腰掛けながら中国の将来、その経綸について幾多の抱負を語り合った。そのとき、夜空に光芒を放つ一條の流星を見て、この時、祖国の革命に心に誓った」
 残念ながらまだ読んではいないが、宮崎滔天全集の中に、孫文は白山神社に近い小石川原町の滔天宅に寄寓していたと書かれている。孫文が滔天と知り合った のは1897年(明治30年)のことだがら、二人は肝胆合い照らす仲だった。孫文が1905年に興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成したの も東京だった。明治43年は辛亥革命の前の年にあたる。
 奥州の豪族、安倍頼時(頼良)を征伐したとされる「前九年の役」で戦勝を祈願した義家、そして革命を誓った孫文。
 同じ白旗桜の木の下での出来事だったのである。

 由緒
昭和四十三年度総代会に於ける宮総代秋本平十郎及浦部武夫両氏の談話の中に白山神社境内には中国の政治家孫文先生と宮崎滔天寅蔵氏の腰掛けられた石がある との御話がありました依而昭和四十四年度の総代会に故滔天氏の御子息宮崎龍介氏を御招きし其の当時の事をお伺ひ致した処明治四十三年五月中旬の一夜、孫文 先生は滔天氏と共に境内の此の石に腰掛けながら中国の将来及其の経綸について幾多の抱負を語り合わされて居た折たまたま夜空に光芒を放つ一條の流星を見ら れ此の時祖国の革命を心に誓われたと言ふお話をなされました
宮崎滔天全集の中に孫文先生は当神社に程近ひ小石川原町の滔天氏宅に寄寓せられて居た事が記るされております此の歴史上の事実と当社との因縁を後世に伝う べく兼ねてより総代会にて屡々議題に上りましたが此の度宮総代酒井瀧蔵氏の御発案を契機として神社総代各町会総代有志の心からの賛同の結果、此の腰掛石の 記念碑建立の運びと成り之を永代史跡として残す事に成った次第であります。
昭和五十八年六月一日
白山神社 宮司 清水司

伴武澄 について

新聞記者を定年退職後、高知市へ帰り、旧鏡村でシイタケとクレソンを栽培しながら、はりまや橋商店街で毎週金曜日に露天を商い、その夜に「夜学会」を開催するスーパーおじいさん。
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