しきしまの大和心を人とはば 朝日ににおふ山桜ばな

 あまりにも人口に膾炙された本居宣長のうた。国学の開祖の一人である宣長の墓は松阪市郊外の山中にある。生前自ら設計した通りにつくられ、そこに一本の山桜を植えるよう命じた。宣長が死んだのは1801年だからすでに200年以上の歳月が経つ。


 200年前に植えられた山桜ではないが、今も宣長の奥墓には一本の山桜が立つ。周りの桜が盛りを過ぎたころ、その一本の山桜が花をつかせる。宣長の山桜 は山の杉の木立に競うように上へ上へと伸びている。ひょろ長い桜木は美しいとはいえないが、この時期、遠路訪れた旅人の心を潤わすものがある。


 宣長がひとかどならぬ桜狂となるには理由がある。長く実子に恵まれなかった父親が吉野の水分神(みまくりのかみ)に通ってようやく生まれたのが宣長だっ た。自ら吉野の桜の精と信じたとしても不思議でない。晩年、門人たちを引き連れてこの時期、吉野へと旅立ち、『菅笠日記』をものにした。桜追慕の旅日記で ある。


 宣長の生涯の師匠となった賀茂真淵もいい桜のうたを残している。


 うらうらとのどけき春の心より にほひ出でたる山桜ばな

 もろこしの人に見せばや三吉野の 吉野のやまの山桜ばな


 (平成の花咲爺)