2006年10月01日(日)萬晩報通信員 園田 義明
 ■一つ目の御前会議機密漏洩事件とヨハンセン・グループ
 吉田茂が憲兵隊によって逮捕されてすぐにジョセフ・グルー駐日米国大使との関係を問われたが、有害なものは見出せず、45日間の勾留を経て無事釈放され る。実際にはヨハンセン・グループの中に、当時であれば間違いなく死刑に相当する重大な国家反逆罪を犯していた人物がいた。しかも、薩摩系宮中グループの 中心にいたこの人物は吉田逮捕と同時に平塚市の憲兵分隊に出頭し、尋問を受けている。もしこの時この事実が発覚していれば、戦後の日本の歴史は間違いなく 変わっていたであろう。
 1941(昭和16)年9月6日の御前会議の内容をグルーにリークしていたのである。この御前会議で「帝国国策遂行要領」が決議され、その第一項で10 月上旬を目途に戦争準備を完遂することを、第二項で日米交渉の継続を決めているが、この日本人情報提供者は第一項には触れずに第二項のみを伝えている。
 グルーが書き残したこの年10月25日の日記を五百旗頭真の『日米戦争と戦後日本』(講談社学術文庫)より引用したい。
「今日、日本政府の最高指導層と接触のある信頼すべき日本人情報提供者が私に面会を求めてきた。彼によれば、近衛内閣総辞職以前に御前会議があり、その席 で天皇は軍の指導者たちに対し、対米不戦の政策の確認を求めた。陸海軍の指導者はそれに答えなかった。すると天皇は、祖父の明治天皇が追求した進歩的政策 に言及して、自分の意向に従うことを陸海軍に命ずる異例の発言を行った。」
 続けてこの日本人情報提供者のグルーへの依頼内容が記されている。
「近衛はこのたび総辞職し、東条内閣が組閣した。しかし、天皇は東条に対して、これまでのいきさつにとらわれず、対米協調を旨として憲法の条草をよく守 り、行っていくように、という注意を与え、それを条件として東条の組閣を認めた。東条が現役大将のまま首相となったのは、陸軍を効果的に統制しつつ日米交 渉を成功裡にまとめるためである。だから、軍の代表者が首班になったからといって、アメリカとの対決姿勢を意味すると思わないでほしい。どうかアメリカ政 府としては日本との交渉に見切りをつけず、東条内閣とも誠実に交渉をお続けいただきたい。」
 四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ
 昭和天皇は御前会議終了間際に懐からこの明治天皇の御製を取り出し、二度朗詠し、さらに「私はこの明治天皇の御製を愛誦し、その平和愛好の精神を自分の心に言い聞かせている」とつけ加えた。
 これが「異例の発言」として「使者」からグルーへ伝えられた。グルーは日本人情報提供者との深い友情から敢えて名を伏せた。グルーにとってこの人物は宮 中グループとの極めて重要な仲介人であった。またグルーは、この人物が属する薩摩系宮中グループこそが対日戦後政策を円滑に実現し、良好な日米関係を再構 築する上で不可欠な存在と堅く信じ、何としても保護すべき対象だった。
 日本側からすれば日本人情報提供者はグルーを介した米国への使者であった。従って、本稿では以後この日本人情報提供者を「使者」と呼ぶ。

 ■二つ目の御前会議機密漏洩事件と松岡洋右
 実はこれとはまったく別の形でこの御前会議の情報は最高指導者スターリンにも伝わっていた。ソ連国家保安委員会(KGB)の前身である内務人民委員部 (NKVD)の極秘文書から、御前会議の3日後の9月9日付「特別報告」によってソ連内務人民委員ベリヤからスターリンとモロトフ外相へ伝えられていたこ とが明らかになった(05年8月13日付共同通信)。
 日本政府内部に暗号名「エコノミスト」と呼ばれるソ連の日本人スパイが存在し、この「エコノミスト」は、左近司政三商工大臣(当時)が9月2日に行った 要人との昼食で、日米交渉決裂なら開戦となり「9月、10月が重大局面」と明かしたとベリヤに報告、また、対米関係悪化のためソ連とは和平を維持し、外交 方針はこれらの原則を基礎に決めるとの商工大臣発言を伝えた。
 この記事の中で、下斗米伸夫法政大教授と袴田茂樹青山学院大教授は、ゾルゲや尾崎秀実の関わったソ連赤軍第四本部の統括下にあったスパイ網とは別系統のNKVD統括下のスパイ網が存在していた可能性を指摘している。
 ここに登場する左近司は海軍条約派に属し、1935(昭和10)年より海軍主導の国策会社・北樺太石油会社の社長を務めた経験がある。当時、戦争に向けて陸・海軍間で石油の奪い合いをしていた。この石油が「エコノミスト」を特定する鍵を握っているのかもしれない。
 現在の石油・天然ガス開発プロジェクト「サハリン1・2」の原点でもある北樺太石油会社は、25(大正14)年の日ソ協定に基づき、オハを中心とする北 樺太油田の採油利権を認められた時に始まり、左近司を含めた3名の歴代社長はすべて海軍中将が務めた。最盛期には年産約17万トン、ソ連開発分の買い入れ を含めると約30万トン、これは当時日本国内の産油量の半分以上に相当し、日本の原油調達全体の約6%を占めていた。
 日独伊三国同盟に続いて、41(昭和16)年4月に締結された日ソ中立条約の交渉過程で、モロトフ外相はこの北樺太油田の利権解消を要求する。実はこの 時も松岡の動きと意図は直前の3月10日付でゾルゲを通じてスターリンにもたらされていた。この情報を手にしたスターリンは終始主導権を握る。この条約締 結によって日、独との二正面作戦を巧みに免れたスターリンは北樺太の石油利権放棄という譲歩まで手に入れる。 
 それにしても米国との関係悪化が日本を石油確保に奔走させる中、北樺太油田は当時風前の灯火状態だったとはいえ貴重な安定供給源である。簡単に譲歩に応 じた松岡の態度、加えて松岡は利権解消について議定書ではなく外相書簡にすることをソ連側に提案、この書簡は秘密扱いにしつつ、中立条約のみが外交成果と して強調したことも極めて不可解と言える。ヒトラーではなく「おそらくはスターリンに買収でもされたのではないかと思われる」などと想像してしまう。
 そもそも国際連盟脱退後、満鉄総裁として返り咲き、大調査部を発足させ、左翼からの転向者を大量に招き入れることで満鉄調査部内に「満鉄マルクス主義」 を浸透させるきっかけをつくったのが松岡である。満鉄調査部にはその嘱託職員であった尾崎と満鉄調査部から企画院へ出向した小泉吉雄らを加えたコミンテル ン人脈、それに中西功や尾崎庄太郎らを中心とする中国共産党人脈が巣くっていた(『満鉄調査部』『満鉄調査部事件の真相』小林英夫他)。
 彼らのほとんどが「エコノミスト」による「特別報告」が行われた9月9日直後から、ゾルゲ事件(41年10月)、合作者事件(41年)、満鉄調査部事件 (42年、43年)や中国共産党諜報団事件(42年)で検挙されていることを考えれば、この検挙者の中に「エコノミスト」が含まれていたのだろうか。
 筆者には中国も事前に日米開戦時期をより正確につかんでいたとの情報が入っていることから、「エコノミスト」は満鉄調査部周辺の中国共産党人脈が怪しい と睨んでいる。中国には英国特殊作戦執行部(SOE)が深く潜入しており、コミンテルンも巻き込みながら英国・ソ連・中国間で日本情報を共有していた可能 性すらある。
 その根拠の一つとして、中国国民党の国際問題研究所(IIS=Institute for International Studies)の下部部門を英国が運営したという中英共同活動があげられる。その下部部門とはその名も資源調査研究所(RII=Resources Investigation Institute)である。どうやらコミンテルンや中国共産党、それに満鉄調査部の工作員もここに出入りしていたようだ。日本という大敵の存在が彼らを 一瞬結びつけた。それぞれの利害が複雑に絡まる中で、一致を見出す戦略目標が現れたからだ。
 その戦略目標とは日本を米国と戦争させること、即ち日本を米国にぶつけることである。当時蘭印の石油はロイヤル・ダッチ・シェル(生産量の74%)とス タンバック(残り26%)の支配下にあった。スタンバックとはスタンダード・バキュームのことでスタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー(後にエク ソンからエクソン・モービル)とスタンダード・オイル・オブ・ニューヨーク(後にモービルからエクソン・モービル)の極東合弁会社である。彼らはこれに目 を付けた。
 石油で揺さぶり日本を米国と衝突させる。そして、石油欲しさの日本をロスチャイルドとロックフェラーの地へと追い込む。日本を南進させて虎の尾を踏ませ るわけだ。これによって、戦争は激化し、長期化し、日本は破滅へと向かう。ソ連・中国としては日本の脅威を回避できる。英国は日本憎しで国内を結束させつ つ、モンロー主義の米国を世界大戦に引き込む狙いがあった。
 しかし、開戦間近との情報が続々と届く中、まさか日本が石油も無しに開戦するとは誰も思っていなかった。それほど日本は愚かではないと判断していたのである。ところが日本は無邪気にも自らぶつかっていった。こうした周辺各国の読み違いが真珠湾奇襲の成功をもたらした。
 張作霖爆殺はソ連が日本軍の仕業に見せかけて行なったとするユン・チアンの『マオ』(講談社)の発表以来、日本はコミンテルンや中共の謀略によって嵌め られたと声高に主張する右派系識者が続々と出現しているが、ここにも相変わらずの無邪気さが垣間見える。戦争ともなれば謀略などは当たり前で、嵌められる 方が悪いのである。
 それにしても真珠湾攻撃対象にオアフ島にあった大規模石油貯蔵基地が見落とされていたこと、ハワイを占領することなくそのまま帰還したことが不思議でならない。

 ■日米戦争は油で始まり油で終つた様なものだ
  (『昭和天皇独白録』)
 ここでの当時の石油事情を見てみよう。日本の石油生産量は年間40万トン以下、約500万トンの需要に対して自給率は1割にも満たなかった。石油の不足 分は海外からの輸入に依存し、しかも極度に米国に依存していた。1940(昭和15)年の米国からの輸入量は337万トン、これは輸入全体の86%に達し ていた。
 これでは米英と戦えないと判断した日本政府は、36(昭和11)年に総額7億7千万の巨費を投じる「人造石油7か年計画」を策定する。しかし、計画4カ年後(40年)の計画達成率はわずか2.5%という悲惨な結果に終わる。
 御前会議の席上で企画院が説明した「開戦時石油需給見通し」がある。貯油は735万トン、開戦第1年の消費見込みが(陸軍、海軍、民間合計)が年間約 600万トン、これでは早々にお手上げとなるので、収得見込みに頼りにならない人造石油26万トンを上乗せして国産分、南方還送分を含め合計74万トンに した。それでも二年で底が尽きるので、開戦第2年に南方還送分の取得見込みをドドンと175万トンに引き上げる。
 かくして開戦後ただちにロスチャイルドとロックフェラーの待つ南方油田を占領し、石油を確保する戦略を決定、開戦二カ月後の2月14日には陸軍落下傘部隊がアジア随一の産油量を誇るスマトラ島パレンバン油田を奇襲し、120名の石油部隊が上陸する。
 しかし、パレンバンの石油が順調に届いたのは約一年間。本気になった米国ほど怖いものはない。制海権、制空権を米国に奪われ、石油輸送路は寸断される。 しかも石油タンカーが米国の最優先攻撃目標とされた。南方からの石油は45(昭和20)年3月の光島丸と冨士山丸に積まれたそれぞれ1万4千トンが最後と なった。
 まさに「日米戦争は油で始まり油で終つた様なもの」となった。

 ■もう一つの情報工作と薩会同盟
 さて、一つ目の御前会議機密漏洩事件について、五百旗頭真は薩摩出身の東郷茂徳外相の意を受けて日本人情報提供者である「使者」がジョセフ・グルー駐日米国大使にリークしたとしている。
 グルー日記に御前会議情報が記されたのは10月25日、その5日後の10月30日にロバート・クレーギー駐日英国大使から英国外務省あてに送られた公電を工藤美代子が発見している。
 このクレーギー電によると「天皇が東条を首相にする時、米国との交渉を続けることと戦争を避けるあらゆる努力をすることを条件にしたとの情報をさらに確 認した。この話は米国の同僚(グルー駐日米国大使)には多少違う形で伝わっており、それによると陸海軍の代表は(近衛)内閣危機の時に開かれた重臣らの会 合で、天皇から戦争につながりそうないかなる動きも慎むよう命じられた。しかし、天皇の介入がどんな形であれ、前例のない勇断であったことは間違いない」 としている(1988年8月1日付朝日新聞朝刊)。
 この内容からは御前会議と特定することはできないが、グルー日記の「異例の発言」を「前例のない勇断」と置き換えることもできる。また「米国の同僚(グ ルー駐日米国大使)には多少違う形で伝わっており」となっていることから、グルーの入手した情報を英米間で共有していた可能性もある。
 リークされた日時とその内容から、薩摩系宮中グループが主導した組織的な情報工作であった可能性が高い。この時すでに敗戦後の日本の国体護持と昭和天皇 の戦争責任訴追回避に向けた「昭和天皇免罪工作」が実行に移されていたと考えるべきだろう。裏を返せば、彼らは昭和天皇の戦争責任が問われることも有り得 ると見ていた。昭和天皇が世代の近い木戸に傾斜していたことを認識していた。だからこそ工作が必要であった。
 薩摩系宮中グループが主導した組織的な情報工作には驚くべき協力者がいた。当時クレーギーと頻繁に接触していたのは松平恒雄である。この松平も薩摩系宮中グループと切っても切れない関係にあり、この時まさに薩会同盟が結ばれていた。
 松平恒雄は駐米、駐英大使などを歴任した外交官で、当時宮内大臣を務めていた。戊辰戦争で最後まで官軍と戦った元会津藩主であり京都守護職でもあった松平容保の四男で、母・信子は佐賀の元鍋島藩主、鍋島直大の四女である。
 会津藩の長州藩に対する怨念は消えていない。これをテーマにした書籍も今なお相次いで登場している。ここで必ず話題になるのが靖国神社である。ではなぜ会津は同じ官軍であった薩摩をほとんど取り上げないのか。会津は薩摩と和解したのだろうか。
 これを説く鍵も「使者」と松平恒雄の関係にある。

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp