バウチャー制度よりもチャーター校を
■わくわく感が乏しい安倍総裁誕生
自民党総裁選で9月20日、安倍晋三総裁が誕生した。メディアは大騒ぎしたが、既定路線で新味がない。それどころか小泉純一郎政権が誕生した時のような国民的高まりに欠ける一日だった。
若さを強調しての出馬だったが、演説は空虚で訴えるものがない。どうしてこの政治家がそんなに人気があるのか不思議で仕方ない。政治家は国民を鼓舞する 言葉が不可欠だと思ってきたが、わくわくさせるような期待感が今後、この政治家から生まれるとは思えない。拉致問題で北朝鮮に対して強硬姿勢を”貫いた” ことになっているが、負けるはずのない相手に強硬姿勢を示したところで偉くも何ともない。僕はそう思っている。
せっかく総裁に当選したばかりなのに、みそくそにいってはかわいそうなので、安倍新総裁の政策で一つだけ注目している点を上げたい。
教育改革の中で述べているバウチャー制度である。これはひょっとしたらおもしろい結果を生むかもしれないのである。津々浦々に特徴ある寺子屋が復活するかもしれないのだ。
■ミネソタ生まれのチャーター校
そもそもこの制度は1990年代のアメリカで生まれたチャーター・スクールという概念の一部なのである。ミネソタ州の市民団体が提唱し、1992年、同 州のセントポールで初めてのチャーター校が生まれ、2005年時点で全米40州3600校にチャーター校が運営されているという。これらのチャーター校に 通う児童生徒は全米の3・3%の及ぶというから侮れない。
チャーター校は、画一的な公教育の弊害から脱却することを目的に、いわば教育の民営化を図ろうとするものだった。地域の先生やPTAらが自分たちがつく りたい学校を考え、教育委員会などの公的機関に認められるとその学校に生徒数に応じた公的資金が投入される制度。地域の人々と公的機関との契約で成り立っ ていて、契約期間内に目的を達しないチャーター校は「廃止」される。
目的はいろいろあって、理科系教育に徹する学校、芸術中心の学校、不登校児を集めた学校など千差万別である。江戸時代の寺子屋を復活してもいい。ようは 教育の理念の多様化を住民に委ねるということだが、白人だけの学校が生まれたり、地域の教育格差が生まれるなど批判もあるし、廃校になるなど多くの失敗例 もある。
地域の教育を民間に委ねるというこの制度は、もちろん地域住民による手作りの学校もあるし、まるごと教育企業に丸投げされる場合もある。アメリカ最大手 のエジソン・スクールは100校以上を運営し、7万人の生徒を抱えるという。日本の公文もアメリカでチャーター校の一部を請負っているらしい。
民営化は学校全体の運営だけではない。バウチャー制度は一人当たりの教育費を計算し、私学に通う児童生徒に対して、それ相応の公的負担を行うというものである。
チャーター校もバウチャー制度も公立校からみると、その分、予算が減額になる。教育水準を上げたり、教育環境を改善する努力を怠るとさらに生徒が減少す るという危機に迫られる。そもそもが競争原理を導入することで公立校のレベルアップを図るのが狙いだった。目的は教育全体のレベルアップだから、公だとか 民にこだわらない。最近の議論はほとんど調べていないが、ここらがアメリカ的である。
■教育は本当に義務なのか
古い話だが、2000年12月5日に「私学より授業料が高い公立小中学校」というコラムを書いたことがある。
http://www.yorozubp.com/0012/001205.htm
日本の小中学校の公的負担が一人当たり80万円以上になっている実情を紹介したのだが、国と地方がつぎ込んでいる教育費が巨額なわりに、そのお金がどのように効率的に使われているかはほとんどブラックボックスの中なのである。
もし公立校が民営化されたら、今以上に結果責任を問われることになり、お金の使い方もより透明化されるのではないかと思う。
1998年3月1日には「豊かな北海道に義務教育は似合わない」というコラムも書いた。これは「北海道独立論」シリーズの一部として読んでほしかった。
http://www.yorozubp.com/9803/980301.htm
子弟教育はもともと私学から始まっていたが、列強の時代に富国強兵という国家要請の下に義務教育などという制度が生まれた。平和で豊かな時代に何も強制 しなくともみんな勉強するだろうという発想である。公教育を否定したのではなく、「義務」という概念に引っかかりを感じたのである。
さて日本にチャーター校やバウチャー制度などが導入されるとどうなるか。ひょっとしたら津々浦々の塾が公教育を壊滅に追い込んでしまうかもしれない。そ んな不安もあるが、公教育のレベル向上が求められている時代にアメリカですでに定着しているチャーター・スクールについて功罪を含めて考える必要もあるの ではないかと思っている。