右か左かの踏み絵風(1)-「靖国問題」とはなにか
2006年06月28日(水)ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 坦
私は、自分が長年外国で暮らしているためかもしれないが、日本での靖国神社についての議論の在り方に違和感をおぼえる。問題でもないことを「問題」にしているように思えてしかたがない。
■暗黙のコンセンサス
日本から送ってもらった坪内祐三著「靖国」(新潮文庫)の後書きの中で作家の野坂昭如が「靖国神社については、戦後語れば、どうしても右か左かの踏み絵 風となり勝ちだが、ぼくは、祖母のお陰で、この幣を免れている」と書いている。「右か左かの踏み絵風」とは言い得て妙で、私は笑ってしまった。これは戦後 日本社会の暗黙のコンセンサスで、靖国を参拝する人は戦前の軍国主義の肯定する右翼で愛国者あり、それに反対することは左翼・革新で平和主義者と見なされ ることである。
これが暗黙のコンセンサスであるのは、この「右か左かの踏み絵風」の有効性がおたがいに対立している右と左のどちらからも承認されているからである。そ の証拠に、頭の中に私利私欲しかない政治家も靖国に参拝しただけで自分をコワモテのする右で「愛国者」であると思うことができる。また参拝して「軍国主義 賛美者」扱いされたとして怒って名誉毀損で訴えようとする政治家がいないのは、人に後ろ指をさされてもしかたがないことをしたと自分でも思っているためで はないのか。逆に、参拝に反対する人たちのほうも革新で平和のために貢献していると思うことができる。このように「右か左かの踏み絵風」のお陰で誰もが安 直に政治的アイデンティティーを確保できることがこの暗黙のコンセンサスが半世紀以上も長続きしている理由である。
参拝してその理由をきかれた政治家は「戦争犠牲者の方々すべてに謹んで哀悼の意を捧げた」とか「御霊の前で平和への誓いを新たにしてまいりました」とか こたえる。メディアはこの発言を嘘だともいわないでひたすら無視する。そうであるのも、「右か左かの踏み絵」でなくだから「右か左かの踏み絵風」であり、 あいまいなままにしておく構造がその特徴だからである。
ある日本の新聞は「靖国神社は軍国主義のシンボルだった。いまの日本の首相が戦没者を弔う場所でない」と靖国参拝に反対した。でもシンボルというコトバ は便利であるが、ここでどのような意味でつかわれているのだろうか。例えばハーケンクロイツはナチのシンボルである。これを表示することはドイツをはじめ 多くの欧米諸国で刑法上禁じられている。そうであるのは「ネオナチ団体」がナチ思想を信奉していることをしめすためにこのシンボルをもちいているからであ る。(この場合は、このシンボルが「踏み絵風」でなく「踏み絵」として機能していることになる。)
それでは、日本で参拝に反対する人々は、ハーケンクロイツと同じ意味で靖国神社を軍国主義のシンボルだと見なしているのだろうか。もしそうだとした ら、(後で述べるが、国際社会のほうはそう考えているのだが、)参拝する政治家だけでなく、毎年参拝する六百万人の日本人にも「いまの日本国民が戦没者を 弔う場所でない」と反対するべきである。というのは、彼らの参拝が軍国主義肯定になり、これこそ本当は反対に値する。
ところが反対しない。例えば「いまの日本の首相が戦没者を弔う場所でない」と参拝に反対した新聞は別の機会に「私たちは、一般の国民が戦争で亡くなった 兵士を弔うために靖国に参る気持ちは理解できると繰り返し指摘してきた」と書く。ということは、日本で靖国に反対する人々は靖国神社がハーケンクロイツと 同じ意味で「軍国主義のシンボル」だと見なしていないことになる。
そうであるのなら、今度は別の疑問がうまれる。一般の国民が戦没者追悼のために靖国に参拝していいのなら、彼らから選ばれた政治家が同じことをするのに 反対できないのではないのか。どうして首相の「亡くなった兵士を弔うために靖国に参る気持ちは理解できない」のだろうか。このことは、日本での議論に馴染 んでいる人に気にならないかもしれないが、ダブルスタンダードである。というのは、一般の国民と為政者とに分けて、前者を(重要でない)大衆と見なして大 目に見ているのに対して、後者にきびしい尺度を適用しているからである。この民主主義的とはお世辞にもいえないダブルスタンダードのほころびを見ないです ますために、「公的参拝」と「私的参拝」とに分けて「政教分離」を持ち出すのではないのだろうか。
■ほんとうの問題
「右か左かの踏み絵風」によると、「靖国問題」とは右のほうから見たら愛国心のない参拝反対者がいることであり、反対に左の革新派にとっては自国が過去 にした戦争に対する反省の乏しい同国人がいることである。敵か味方かの党派的対立を半世紀以上も続けると、これも人間的なことであるが、自分の所属する陣 営に都合の悪いことは見ないようにする習慣が定着する。(すでにふれた一般国民と為政者に分けるダブルスタンダードもその例である。)その結果「右か左 か」だけの話になり、それ以外の立場は頭の中に入って来なくなる。もし靖国問題があるとすれば、それは構造化した「右か左かの踏み絵風」がもたらすこの種 の集団的思考停止である。
例えば誰かに靖国参拝反対理由を尋ねる。もどってくる回答の全部ではなくても、その大部分はこの神社が戦前の軍国主義の片棒をかついだという話である。 でもどうしてこの過去の事実の指摘が現在の靖国参拝の反対論拠になるのであろうか。過去が過ぎ去って間もなかった戦争直後なら理解できる。ところが、半世 紀以上も経過し、戦争体験者がいなくなりつつある現在、本当は現在の日本についての話が出発点にならなければいけないのではないのか。戦後の経済的繁栄を 享受してきた人々が神妙な顔をして軍国主義と戦争がまるで昨日のことであるかのように語るのは空々しい。
軍国主義の特徴は、外交問題解決に軍事力を優先し、また国内で職業軍人が尊敬されている社会である。どう考えても、戦後の日本ほど軍国主義から遠い国は ない。地中から発掘された古代ギリシアの刀剣は(たとえ歯がこぼれていなくても)現代の戦争で武器として使用されないで、博物館の展示物になる。似たよう な事情から、戦前の靖国神社を成立させていた制度的また社会的条件がなくなったら、靖国神社のほうも戦前と同じままであり続けることなど不可能になるので はないのか。その結果、この神社は、ほんとうは郷土文化保存協会と同じような存在になって、1945年まで続けた戦没兵士の追悼行事を続けているだけの団 体になった。このような眼で靖国神社を見ることができないのは私たちの頭の中に「右か左かの踏み絵風」がどっかり根を降ろしてしまっているからである。
これに関連して、靖国神社関係者が政治的に右方向に強くふれることを難じる人が少なくない。でも戦没兵士追悼関係者は、グローバル化の先頭に立って多国 籍企業で働いている人ではない以上、どこの国でも国家を強調して(右か左かとなると)右寄りで、これもどこか当然である。次は日本固有の事情で、彼らが 「右か左かの踏み絵」構造で「右の烙印」が押され続けてきたからである。また靖国神社を参拝した政治家は遊就館を見学して共鳴したといっているのではない ことを考慮するべきである。
「右か左かの踏み絵風」とは政治的立場をしめすための材料として靖国を利用することである。私たちは紙に政治スローガンを書いて棒切れにくっつけてデモ をするが、靖国神社はこのときの紙と棒切れと同じである。紙も棒切れも用が立てばよいと思っているが、靖国神社も似たようなもので、私たちは戦没者の追悼 ということを口にしても、これを本当は独自の重要な問題と見なしていない。反対派にも賛成派にも死者を自分の政治的目的に利用しているという意識もろくろ くない。戦没兵士追悼についてほんとうは無知で無関心である。この点はこれ見よがしに靖国神社に参拝する政治家も同じことである。
次にここでいう政治的立場とは(金利を上げるべきかという問題と異なり)日本がした戦争の評価と結びついたものである。戦没者追悼をそれだけで重視され るべき独自の問題と思わないために、私たちは二つの件、靖国参拝による戦没者追悼と戦争の評価を切り離して考えることができないし、頭の中の構造がそう なっていることにも気がつかない。だからこそ「右か左かの踏み絵風」で、右の「靖国賛成=軍国主義肯定」か、それとも左の「靖国反対=軍国主義反対」のど ちらかしか頭に浮かんでこない。ということは、それ以外の立場、例えば「靖国に賛成し軍国主義に反対」という立場が成立できないことになる。
後で述べるように、ドイツは戦後も1945年以前と同じ施設をつかって昔と同じような戦没兵士追悼行事を続けている。だからといって、そのことを戦争の 肯定と見なす人はいない。そうであるのは、二つのこと、戦没者追悼と戦争評価を切り離して考えることができるからである。これができないことこそ問題で、 皮肉なことだが、参拝に反対することはかえって戦前と同じような靖国神社の保存のための運動をしていることにならないか。というのは、外国からの批判を内 政干渉と感じているうちに国民の大多数が反発を覚えて靖国参拝に反対しなくなる。そのときに世論には、残念なことだが、「右か左かの踏み絵風」のお陰で右 の立場しか残されていないからである。
■戦没兵士追悼文化
靖国神社の議論で私に残念に思われることは、参拝反対者も賛成者も、他の国にもある類似した現象とくらべてみようとしない点である。ここまで外交問題に なった以上、これはおかしいことである。また比較しないと自分のしていることが理解できないこともあるのではないのか。今からドイツの戦没兵士追悼の習慣 についてごく簡単に述べるが、細かい点で異なるかもしれないが、他の西欧諸国に共通する。
フランス革命以降、徴兵制度が導入されて国民軍が創設された欧米諸国で一般兵士を対象にする新しいタイプの死者儀礼がはじまった。それ以前どこの国でも 権力をもつ君主や功績ある将軍を特別待遇して後世の記憶にとどめようとして記念碑やお墓をつくることがあった。ところが、この新タイプの追悼文化の特徴 は、氏素性や戦功(生前の業績)とまったく関係なく、戦場で死んだどの兵士にも(君主や将軍と)同じような特別待遇をあたえて、記念碑や個人墓(軍人墓 地)をつくる習慣である。
記念碑のほうはおおげさにも「戦士の碑」とよばれる。プロイセン国王に寄進されて1792年フランクフルトに建てられた「戦士の碑」がドイツではこの新 タイプの追悼文化の最初の例とされている。というのはその碑板に戦死者全員の名前が刻み込まれているからである。また対ナポレオン「解放戦争」の最中の 1813年5月プロイセン国王・フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が戦没兵士の故郷の教会にその氏名を碑板に残すように命令した。これも死んだ兵士の名前を 残そうとする習慣がひろまるきっかけとされている。
その後戦争が繰り返されるうちに、戦没兵士の名前のついた碑板が世俗化とともに教会の外に出て、石像と組み合わされて、台座に碑文、例えば「1914年 から1918年、また1939年から1945年までの間に(戦没した)我が町の英雄のために感謝の念を込めて」といった文句が刻み込まれようになる。「戦 士の碑」は教会とならんでどんな小さな町や村へ行ってもよく眼にするもので、現在ドイツに10万以上あるといわれる。その大多数は第一次大戦後に建てられ たもので、第二次大戦の戦没兵士氏名の碑板がそこに取り付けられている。
次は軍人墓地のほうである。フランスの歴史家フィリップ・アリエスやその他の人々が書いているように、19世紀前半までは戦場で死んだ士官は近くの教会 で埋葬されたりお墓がつくられたりしたが、一般兵士のほうはその死体が一箇所に集められて死んだ家畜同然に地面に埋められるだけだった。ところが兵士とし て召集される市民の地位が上昇するにつれて個々の戦没兵士にも(普通に死んだ人と同じように)お墓をつくるべきという声が強まる。これは、墓石に死亡者の 名前が刻み込まれ、その下に死体が埋葬されている個人墓である。
そのために死体の身元確認が必要になるが、その目的のために認識票(兵士が携帯する鑑札)が導入されたのは1870・71年の普仏戦争のときからであ る。その数年前に戦傷兵救済のためにアンリ・デュナンの赤十字が生まれている。戦場に負傷して倒れている兵士の救済も、また死んで倒れている兵士にお墓を つくることも、ハーグ陸戦条約と同じように「戦争の人道化」のこころみであった。この「戦争の人道化」は憲法九条の「戦争の違法化」の陰に隠れて戦後の日 本人に縁遠くなった考え方である。そのために私たちに理解しにくいかもしれないが、平和主義から戦没兵士追悼にも反対する立場は欧米では理解されにくい。 これは、国際赤十字の廃止を求める平和主義者が倒錯的と感じられるのと同じ理屈である。
普仏戦争の後に締結されたフランクフルト平和条約の16条は両国に兵士の墓作りと管理に関して相互協力を義務づけている。その後欧州諸国がむすぶ平和条約ではこの事項は欠かすことができなくなる。
欧州で、どの戦没兵士にも個人墓をつくことが一般的習慣になるのは第一次世界大戦のときからである。これは驚くほど面倒な作業だ。戦闘中で仮にほうむら れたり、そうされないで自然に埋まったりした兵士の遺骨(、現場の作業者の表現によると「220本の骨」)を掘り出しては身元を確認して、正規の墓地に移 して埋葬しなければいけない。パリの凱旋門の下をはじめ欧州の幾つかの町に「無名戦士の墓」がある。ここでいう「無名」とは、このような個人墓をつくろう としたが、すさまじい塹壕戦で認識票もその他のてがかりも失われて身元が確認できなかったという意味である。ときどき誤解する人がいるので強調すると、気 前のよい国家が名もなき(重要でないが哀れな)兵士にお墓をつくってやったという意味ではない。あくまでも個人墓をつくる兵士追悼文化を前提にした上での 「無名」である。
第二次大戦後も、1945年までのドイツの継承国である西ドイツは西側の隣国と軍人墓地協定を締結してあたらしく死んだ兵士のために軍人墓地をつくった だけでなく、普仏戦争と第一次大戦の軍人墓地の手入れと管理を続けている。これは普通の人のお墓と異なり戦没兵士の墓は国家によって永遠に維持されること になっているためである。
1990年冷戦が終了すると、今度は統一ドイツがロシアなどの旧東欧諸国と軍人墓地協定を結んで、それ以来軍人墓地をつくる作業を続けている。現在まで にロシアだけでも百以上の軍人墓地が建設されたが、旧ソ連に200万の死体埋まっているといわれる。それらの遺骨を掘り出して身元を確認し、(予定され た)軍人墓地に移して、正式に埋葬しなければいけない。考えただけでも気の遠くなるような作業である。
(つづく)
「戦士の碑」、認識票、軍人墓地、「無名戦士の墓」、「国民哀悼日」の写真は
http://www.geocities.jp/tanminoguchi/photos.htm
右か左かの踏み絵風(1)-「靖国問題」とはなにか
右か左かの踏み絵風(2)-「靖国問題」とはなにか
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右か左かの踏み絵風(4)-「靖国問題」とはなにか