明治の政治家や軍人、経済人、文化人は多く歴史教科書にその名を残しているが、近代日本は文系の人材のみでなしえたものではない。築港やダム建設、河川改修などの礎を築いた理系の工学技術者たちの生き様にもう少し光を当てたい。明治川の土木工学界の先駆者を一人挙げよと問われれば、だれもがクリスチャンの広井勇(ひろい・いさみ)の名を挙げるだろう。

 公共事業といえば、技術官僚の天下りを通じた談合の元凶としていまや無駄の代名詞となりはてているが、明治・大正期の日本の多くのシビル・エンジニアたちは日本を背負いながら、西洋から最先端の技術を吸収して発展のグランドデザインを描いた。現在の豊かな日本はそうした先人たちの労苦に負うところが少なくない。

 歴史に残る小樽港工事
 広井の名を全国に知らしめたのは明治30年(1897年)から始まった北海道の玄関としての小樽港の工事だった。アメリカ、ドイツでの実務・研究から帰国した広井は札幌農学校の教授として迎えられた。それまでの日本の土木工事はお雇い外国人に多くを依存していた。小樽築港は北海逆開発物流の拠点として不可欠な上木工事だった。しかも日本人による初めての計画、設計の仕事だった。
 広井は教授のまま小樽築港事務所長となり、工事にとりかかった。難関は北国の荒波と暴風雨に耐えうる防波堤工事だった。なかでもコンクリートの強度については100年以上使用できるよう耐久試験を繰り返した。またコンクリートブロックを斜めに積み重ねるという新たな工法も多く生み出した。第1期工事の陣頭指揮を執り、全長1289メートルの北防波堤を完成させた広井の後を継いで、第2期工事(南、島防波堤と北防波堤の延長部分)を手がけた伊藤長右衛門は広井の勧めで道庁に入った間柄で、港湾荷役のための運河の造成は、広井の助言だった。この通算25年に及ぶ難工事は大正11年(1922)に完成したが、広井はこれらの経験を『築港』という5巻の本にまとめ、これが日本で初めての築港工学に関する専門書となった。函館、室蘭、門司など多くの日本の港は広井の手によって樹築され改良されたことを忘れてはならない。
 広井は明治32年(1899)、東京帝国大学に招かれ教授となり、各地の橋梁や鉄道の設計に足跡を残すかたわら、明治38年(1905年)にニューヨーク市バン・ノストランド杜から、「橋の不静定構造力学理論」を出版し当時の橋梁力学理論において世界最商水準の名著として絶賛された。晩年は土木学会会長にまで登り詰め土木工学界の第一人者となったが、宴席を嫌い贈答には手を触れなかったといわれる。清廉さを失わなかった明治人の一人だった。

 札幌農学校2期生の3羽がらす
 広井は文久2年(1862)、土佐藩の筆頭家老深尾家に仕える藩士の家に生まれた。早くして父を亡くし、伯父を頼って11歳で上京。13歳で東京外国語学校に入学、工部大学校予科(現在の東大に学部)を経て、16歳で札幌農学校の第2期の官費生に合格した。
 札幌農学校は初代北海道開拓使長官となった黒田清隆がグラント・アメリカ大統領に協力を求めて来日したケプロン農務艮官の建議によって設立された。北海道開発のための人材育成が目的で、初代教頭は「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士である。授業は3年間、学生は一学年10人内外の少数精鋭教育だった。農業と工学が中心で、もちろんすべて英語で行われた。札幌農学校で興味深いのは、官営の学校であったにもかかわらず、プロテスタンティズムの精神が貫かれていたことである。キリスト教はその数年前まで明治政府によって禁されていた。黒田長官が「学生に最高の道徳を伝えてほしい」と要詰したことに対して、クラーク博士が「最高の道徳、それはキリスト教以外にない」と答えたそうだ。黒田長官はクラークの教育方針を黙認した。北海道という新天地にはそういう自由な気風があったのだ。
 その結果、同期11人中、7人が在学中に洗礼を受けることになった。そのなかの“3羽がらす”が広井と新渡戸稲造と内村鑑三だった。新渡戸は太平洋の架け橋たらんと大志を抱き、英語で『武士道』を書いた。後に台湾総督府民政部で台湾経済の振興に心を砕き、第1次大戦後は国際連盟の事務局次長を務めた。内村は萬朝報主筆の一人として日露戦争で反戦の論陣を張り、自ら発行した「東京独立雑誌」を通じて明治後期の多くの進歩的若者の思想的支柱となった。
 札幌農学校という精神風土はいわば「サムライ・クリスチャン」だったのだ。内村は無教会派の伝道師となった。広井もまた一時期、伝道師を目指したが、その思いを断念、エンジニアとして事業を通じて博愛を広めた。札幌農学校での3年間は広井の生涯を通じての思考や行動の規範となったことは間違いない。

 育まれた国際的エンジニア
 広井は日本の土木工学界の先駆者として名を残しただけではなかつた。東京帝大の教授時代には青山士、八田與一、久保田豊という3人の国際的な土木エンジニアが彼の研究室から相次いで巣立っていった。
 静岡県出身の青山士は大学卒業後、アメリカに渡りパナマ運河の設計メンバーに加わったことで若くしてその名を轟かせた。しかしアメリカで起きた日本人排斥運動の煽りを食らって完成を前にして帰国を余儀なくされた。帰国後は荒川放水路や信濃川大河津分水可動堰という国土大改造の指揮をとった。
 八田與一は石川県生まれで、台湾南部に鳥山頭ダムを建設し不毛の地とされた嘉南平野を広大な穀倉地帯に変えた人物。命日の5月8日にはいまも故人を偲んで地元民による墓前祭が行われている。李登輝前総統は目本精神の代表的人物として言及しており、台湾の教科書にも偉人として紹介されている。
 久保川豊は戦前、朝鮮と旧満州の境を流れる鴨緑江に当時としては世界最夫規模の水豊ダムを建設。70万キロワットという巨人な水力発電はいまもなお中朝両国に送電され、産業インフラとして不可欠な設備となっている。戦後はアジア・アフリカで多くのダム建設開発のリーダー的役割を果たした。
 土木は本来、経世済民の一環として災害から国土を守り、灌漑や発電によって農業や産業の振興をもたらすはずのものだった。広井とその弟子たちに共通しているのは国際的な広い視野と開発の中心にピューマニズムを据えた事業の経営哲学である。半世紀を優に超えたいまも彼らの作品である構築物は、国境や民族を越えて人々の生活を支えているのである。
 朋友、内村鑑三は広井の葬儀で「広井君ありて明治・大正の日本は清きエンジニアを持ちました」と弔辞を読んだ。

 伴武澄(ばんたけずみ) 51年高知県生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。共同通信社入社。大阪支社経済部にて証券・エネルギーなどを担当後、本社経済部にて大蔵省(当時)・外務省などを担当。この間、中国・東南アジアなど移動特派員を兼務。経済部・報道部次長を歴任した後、現在に至る。98年よりインターネットコラム「萬晩報」を発信。https://www.yorozubp.com