紀州・賀田の宿の二階から久々に荘厳な朝焼けを見た。早起きはするものだ。刻々と変化する東の空に季節感はないが、やはり春の息吹を感じさせるものがあった。というより、紀伊半島の南端はそもそも暖かいのだ。

 ■神武東征の上陸地
 朝食後に隣の漁港から遊漁船に乗って湾の先にある楯ケ崎を海から眺めた。神武天皇が大和の地に向かう時、上陸したとされる地点でもある。高いところでは 160メートルにも及ぶ柱状節理の大絶壁が延々壁として続き、風景は人を拒絶する感がある。
 九州から瀬戸内海を通って、紀伊半島に上陸するにはもっともっと簡単な海浜がありそうだ。にもかかわらずこの地が上陸地とされたのは、多くの困難を乗り 越えて大和入りしたという艱難辛苦の物語が必要だったからに違いない。それにしても地の果てである。

 ■飛鳥神社

 賀田は尾鷲のさらに20キロほど先にある小さな漁港だ。湾は深く入り込んでいる。飛鳥をアスカを読ませる古い神社がある。幹の回りが11・5メートルもある樹齢1000年以上という大きなクスノキが自生しているから飛鳥神社はそれ以上の古さがあるはずだ。
 神武天皇の上陸地点の近くになぜ飛鳥という地名があるのか、前の晩、議論になった。ひょっとしたら大和の飛鳥の由来は・・・などということになったが、 後でインターネットで調べてみたら「三重ところどころ」というサイトで飛鳥神社の由来について説明があった。
「中世以来、和歌山県新宮市熊野地にある阿須賀神社の神領地で、江戸時代は紀州(和歌山)徳川家の支配をうけ御蔵領(本藩領)といわれ、北山組に属してい ました。いつごろから飛鳥の地名になったかは不明ですが、飛鳥神社からとったものと考えられます」
 それにしても、飛鳥神社の近くに「飛鳥」という地名があって、「明治43年の神社合祀令までは、飛鳥に三つの飛鳥神社(大又、小阪、神山(こうのやま))があった」というのだからまだなぞが解決されたわけではない。
 ちなみに大和の現在の「明日香村」は昭和の大合併まで飛鳥村と表記した。アスカという発音は外来語だそうだが、中国の秦の時代、不老不死の霊薬を求めた 徐福が上陸したとされる波田須(はだす)は楯ケ崎から西の半島をはさんだところにある。

 ■発想の逆転
 話は変わるが、紀勢本線の賀田駅ができたのは昭和34年だった。それまで賀田は文字通り、陸の孤島で唯一の交通機関は船だった。そう考えると身もふたも ない。汽車も自動車もなかった時代、船そのものが物流の中心だったから、賀田は海の幹線の中継基地だったと考える方が正しいのだろう。
 発想を逆転させると見える風景が変わるかもしれない。戦後の日本は海を忘れてしまった。生活や交通の手段だった河川や湖の役割を忘れてしまっただけなのである。
 昭和30年代まで、名古屋空港から鳥羽湾を経由して大阪の八尾空港に跳ぶ航空路があったという話を聞いたことがある。鳥羽に空港などはなかった。飛行艇が飛んでいたのである。あーそうだったのかと合点した。
 若い層には飛行艇といってもピンと来ないかもしれないが、いまでも自衛隊などで多く活躍している。いまでも新明和工業という会社が水陸飛行艇を製造して いる。主に洋上救難用であるが、同社は、国内初の「大型輸送機」として輸出を視野に営業活動を行っているそうだ。
 多大な空港建設費用を考えれば、日本の地域間航空輸送手段として飛行艇を復活できないか。飛行場がない小笠原に高速艇の就航計画が断念されたという ニュースを昨年目にしたが、そもそも緊急時には飛行艇が飛んでいるのだ。週に1便でも飛ばすことができないのか。1万4000トンの客船より飛行艇の方が 運行コストはずっと安いと思うのだが。
 紀伊半島のひなびた漁村での思いは、神武天皇から飛行艇に飛躍してしまった。