縄文・弥生のハイブリッドシステムを忘れるな
執筆者:園田 義明【萬晩報通信員】
■弥生中期の戦士の墓
今からちょうど20年前の夏、私は東大阪市と八尾市にまたがる久宝寺緑地内の遺跡発掘調査現場にいた。炎天下の中、汗だくになりながら弥生時代中期の方形周溝墓の木簡の中から出土した人骨と連日向き合っていた。ボンド片手に骨を固めながら丁寧に掘り出していくと、北側に向いた頭骨から密着した状態でサヌカイト製の石鏃(矢じり)が出てきたのである。また、頭骨周辺には多量の水銀朱と思われる赤色顔料も検出している。この頭部からの石鏃発見は「戦士の墓、発見」の見出しと共に新聞各紙も取り上げた。
後にこの人骨は身長1.6m前後の20歳前後の男性と鑑定されている。従って若き戦士を弔うための墓だったのだろう。弥生時代の戦士の墓は、鳥取県の青谷上寺遺跡、京都市南区の東土川遺跡や松江市・友田遺跡などで続々と発見されているが、この時期広範囲にわたって戦いの爪跡を残している。
縄文人が一万年以上も平和に暮らしていた日本列島に水田稲作文化をもった渡来人が主に朝鮮半島経由でやってくる。縄文人の多くは、この渡来人から稲作を学びながら血も混じり合っていく。弥生人とはこの縄文系の混血弥生人と新たな渡来系の弥生人によって構成され、現在の日本人の原型となっている。
狩猟・採集民族であった縄文人は比較的平和であったのに対し、農耕民族である弥生人はテリトリー意識が芽生え、貧富の差も拡大、階層を生みだし、攻撃性も増していく。しかし、混血は見られるものの、縄文人と弥生人の礎となる渡来人が戦った形跡は残されていない。渡来人は縄文人を「うまく言いくるめたのではないか」と知り合いの考古学者は笑って話していたことを思い出すが、北米大陸のネイティブ・アメリカンの歴史を重ね合わせれば信憑性が帯びてくる。
しかし、縄文人とて自らのアイデンティティーにこだわり、渡来人との窓口に位置していた西九州地方では伝統的な世界観を象徴するために土偶作りが行われ、小林達雄はこれを幕末末期攘夷運動の縄文版と呼んでいる。
■エルヴィン・ベルツの混血説
この日本人の起源に関する「混血説」を唱えたエルヴィン・ベルツを紹介しておきたい。明治初期に医学を教えたベルツは、アイヌ人が北部日本を中心に分布した先住民族であるとしながら、アイヌ人と沖縄人の共通性も指摘している。
ベルツが指摘したアイヌ沖縄同系論は最近のDNA分析でも実証されつつあり、斉藤成也はアイヌ沖縄同系論を支持しつつ、遅くとも縄文時代が始まった1万年以上前には大陸と縄文人としての日本列島集団との間に遺伝的な分化が始まり、縄文時代が終わる3000年前頃には、北海道集団は本州以南の集団と遺伝的に少しずつ離れていく。そして、弥生時代の朝鮮半島あるいは中国からの渡来人による遺伝子流入によって、北海道と本州以南の集団の遺伝的近縁性が減少し、沖縄を中心とする日本列島南方集団が遺伝的に分化する。日本列島本土では弥生時代から奈良時代までは朝鮮半島南部を含む周辺集団と混血しながら、平安時代以後は大規模な混血を経ず、今日に至っているとの見方を示している。
おそらく、神宿る森と共生した縄文人は渡来人の圧倒的なパワーに屈しながらもその信仰を鎮守の森にそっと隠したのだろう。また、融合できなかった一部の民は熊野や四国、九州南部、そして東北の山奥へと逃げ込んでいった。アイヌ人と沖縄人は日本列島の周縁にあたることからその影響を逃れた。渡来人に次いで、後に仏教、さらにはキリスト教をも受け入れた寛容性は縄文の伝統が生きていた証だったのかもしれない。縄文人は負けながらもその信仰を八百万の神々として弥生的な神道に植え付けていく。どうやら、太古から続く主体的な伝承者としての縄文末裔一族のネットワークも今なお存在しているようだ。
この負けて勝つ縄文人を支え続けてきた八百万の神々は、自らも国家的な死に直面しながらも、日本人の根っ子に生き続け、敗戦後の日本を救うことになる。
■縄文との断絶
明治期、皇国史観が支配する中で、縄文人は当時日本人の祖先と考えられていた天孫族が日本に来る前に住んでいた先住民と位置付けられ、野蛮で低劣な存在と見られていた。その結果、鎮守の森や山の奥深くでひっそりと受け継がれてきた縄文信仰も近代化を目指す明治期の天皇を中心とする神道の再編成によって国家的な死を迎えることになる。これは縄文との断絶を意味した。
神道を国家的存在と位置づけるべく、神社分離令(廃仏毀釈)(1868年、明治元年)に始まり、神社合祀令(1906年、明治39年)に至る過程で仏教施設はもとより全国で約7万社の神社とその神々、そして鎮守の森が姿を消した。神々の一元化による淘汰としての神社合祀令に対して、抗議の声をあげたのが熊野の森を愛した野人・南方熊楠であったことはよく知られている。南方が命をかけて守ろうとしたのは、自然ではなく、熊野の地と自らのDNAに刻まれた縄文そのものであった。
先に紹介したエルヴィン・ベルツは日本人を長州型と薩摩型とに分け、それらが異なる二系統の先住民に由来するとしながら、支配階級に見られる長州型は満州や朝鮮半島などの東アジア北部から、薩摩型はマレーなどの東南アジアから移住した先住民の血を色濃く残していると考えていた。このベルツの分類は現在の靖国参拝問題を読み解く上で示唆に富んでいる。
1869年(明治2年)に靖国神社は、明治天皇の思し召しによって戊辰戦争で斃れた人達を祀るために創建された。設立当初は東京招魂社と呼ばれたが、1879年に靖国神社と改称されて今日に至っている。
一部に敵味方を問わず国のために身命を失った人々を弔う場とする見方もあるようだが、中国・韓国以前に会津出身者に申し訳ない。よく比較に出されるアーリントン墓地には敗北した南軍の兵士も弔われているが、靖国神社の場合、戊辰戦争の敵方であった会津白虎隊や西南の役で明治政府に反旗を翻した西郷隆盛は祀られていない。
会津藩士族出身であり本物の右翼を自称した田中清玄は、靖国神社を「長州の護国神社のような存在」と切り捨てる。確かに、戦前の靖国神社は長州・薩摩出身者の強い影響下にあった陸軍省、海軍省と内務省が管轄する別格官幣社であり、祭神の選定も陸・海軍省が行っていた。このことは靖国神社にある長州出身の近代日本陸軍の創設者・大村益次郎のいかつい銅像がなによりも象徴している。
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・」という言葉を時の首相・鈴木貫太郎に送り、日本を終戦に導いた名僧・山本玄峰の元で修行し、「(陛下は反対であったにもかかわらず)どうしてあの戦争をお止めにはなれなかったのですか」と昭和天皇に直接伺い、山口組三代目組長田岡一雄とも親交があった田中清玄が許せない存在として名前をあげたのが岸信介・児玉誉士夫一派である。このあたりの『闇』はさすがの田中清弦も語るのをためらっているようだ。
いずれにせよ岸信介の孫である安倍晋三が「小泉首相がわが国のために命をささげた人たちのため、尊崇の念を表すために靖国神社をお参りするのは当然で、責務であると思う。次の首相も、その次の首相も、お参りに行っていただきたいと思う」(2005年5月28日)と札幌市内の講演会で発言した背景には、安倍の偏狭な長州史観が実によく表れている。
また、小泉首相が薩摩の血を引いていることを考えれば、現在の靖国参拝問題は単なる薩長史観に国民全体が振りまわされているに過ぎず、薩長連合による靖国参拝が、分裂寸前の中国・韓国を結束させていることを考えれば、意外と裏では『闇』つながりの仲良し勢力が潜んでいるようだ。
■縄文・弥生のハイブリッドシステム
「日本の古代も神の場所はやはりここのように、清潔に、なんにもなかったのではないか。おそらくわれわれの祖先の信仰、その日常を支えていた感動、絶対感はこれと同質だった。でなければこんな、なんのひっかかりようもない御嶽が、このようにピンと肉体的に迫ってくるはずがない。-こちらの側に、何か触発されるものがあるからだ。日本人の血の中、伝統の中に、このなんにもない浄らかさに対する共感がいきているのだ。この御嶽に来て、ハッと不意をつかれたようにそれに気がつく。そしてそれは言いようのない激しさをもったノスタルジアである。」
「それにしても、今日の神社などと称するものはどうだろう。そのほとんどが、やりきれないほどに不潔で、愚劣だ。いかつい鳥居、イラカがそびえ、コケオドカシ。安手に身構えた姿はどんなに神聖感から遠いか。とかく人々は、そんなもんだと思いこんで見過ごしている。そのものものしさが、どんなに自分の生き方のきめになじまないか、気づかないでいる。」
これは岡本太郎が御嶽と呼ばれる沖縄の聖地を訪問したときに書き残したものである。拙著「最新アメリカの政治地図」(講談社現代新書)の推薦文を書いていただいた坂本龍一教授、宮崎駿なども含めて一流のアーティストと呼ばれる人々は感性で見抜くことができるのだろう。
しかし、敢えてここで縄文に対するノスタルジアを否定しておきたい。結論から言えば、沖縄やアイヌは周縁であるがゆえにたまたま残ったに過ぎない。周縁と呼ばれる場所に行けば同じ神々に出会うことが出来る。東アジアにこだわる必要もない。
その神々を今なお根っ子に残しているという点では特筆に値することは事実であろう。拙著の中で、トヨタの地政学的な戦略から日本人の両生類的なDNAがあると書いたが、縄文人を海洋文化、弥生人を大陸文化と位置付けることで日本人=両生類説を見出していたのである。
大陸を隔てた反対側の周縁にはケルト民族がいる。妖精が今なお生きるケルト民族と日本人との共通点を見出したのは、「庭の千草」(アイルランド)や「蛍の光」(スコットランド)などのケルト・ミュージックを日本に持ち込んだ森有礼、そして小泉八雲
(ラフカディオ・ハーン)であった。
岡本太郎、坂本龍一、宮崎駿に続き、矢野顕子やネーネーズの古謝美佐子がケルト・ミュージックの重鎮であるチーフタンズと共に歌い、THE BOOMの「島唄」がアルゼンチンに次いで今年ロシアでもヒットした。アイヌではOKIがトンコリの心安らぐ音色を奏でる。
一方では、今なお進化し続けるトヨタの「ハイブリッドシステム」は世界を席巻している。海外勢はこのシステムをまさに神憑りと見ていることだろう。このシステムの本当の原動力は縄文と弥生のハイブリッドにある。
縄文は地球に生きる人類の歴史の原点である。そして今まさに八百万の神々とともに世界を舞台に可憐に踊り始めようとしている。われわれの歴史を今一度丁寧に復元しつつ、現代風にアレンジしながら蘇らせる努力こそが必要だ。
言霊を忘れたかのような罵声が東アジアを飛び交い、日本人が再び縄文と断絶し、ハイブリッドを見失う時、戦争はまた起こる。
□参考・引用
佐原真・小林達雄「世界史のなかの縄文 対論」(新書館)
小林達雄「縄文人の文化力」(新書館)
斉藤成也「DNAから見た日本人」(筑摩書房)
岡本太郎「沖縄文化論 忘れられた日本」(中央公論新社)
「田中清玄自伝」(文芸春秋) 他多数
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