執筆者:南出 健一【企業経営】

数世紀にわたって大国に蹂躙され続けた東欧の国々、それも20世紀後半まで国家でありながら国家としての意志が踏みにじられてきた「苦渋の歴史」に思い致さずにはいられません。

なかでもポーランドの「現・近代史」は国家の生い立ちすら消し去られ、民族そのものが抹殺され続けたことを思うと、誰が神の名において「正義の存在」を認めたのか、けだし神とは邪悪そのものではなかったのかと問わざるを得ない慄きを覚えます。

その意味でも残忍極まりない仕打ちを受けた国家と民族ために、いま一度この事実を直視し問い続けることが、せめて僕たちが後世に申し送るわずかな責務ではないかと思うのです。

■ArbeitMachtFrei

アウシュビッツ強制収容所の三部作「夜と霧」「アンネの日記」「アウシュビッツは終わらない」をはじめ幾つかの書籍を読み、映像でも「シンドラーのリスト」「戦場のピアニスト」や多くの古典作品も観てきました。それなりの認識を持ってアウシュビッツを訪れたつもりの人間でも、凍てつく現場に立ち「ArbeitMachtFrei」を見上げた瞬間、今まで頭の中で積み上げたすべてものが跡形もなく崩れてしまったのです。

それが如何ほどの薄っぺらな「傍観者的認識」であり、「知ったかぶった軽薄さ」にすぎないものかをはじめて知りました。動かし難い事実と向かい合ったとき、その人間の持つ矜持が見て取れるようにも思えました。そして、すべてのものが霧散していく空しさだけが残ったのです。

あまりにも欺瞞に満ちているとはいえ「働けば自由になる」という看板の下を潜った数十万の人々は何を思い何を考えたのでしょうか。明日にもガス室に送り込まれる運命であることを知りながら…。

■考えてほしい

1944年、ここアウシュビッツに収容され生き残ったイタリア人化学者プリーモ・レーヴィの書「アウシュビッツは終わらない」(朝日選書 竹山博英訳)の1ページを飾る散文詩をご紹介します。彼がソ連赤軍に解放された2年後の1947年、学者らしく「事実を事実」として出版したものを1972年あらためて若者に向けて編纂したといわれています。

暖かな家で

何ごともなく生きているきみたちよ

家に帰れば

熱い食事と友人の顔が見られるきみたちよ

これが人間か、考えてほしい

泥にまみれて働き

平和を知らず

パンのかけらを争い

他人にうなずくだけで死に追いやられるものが。

これが女か、考えてほしい

髪は切られ、名もなく

すべてを忘れ

目はうつろ、体の芯は

冬の蛙のように冷えきっているものが。

……………

周囲をめぐらす二重の高圧線フェンス、囚人たちを睥睨する一定間隔の監視塔、とても60年前のものとは思えないほど異様に整えられた赤レンガの二階建て収容施設。その建物の一角に積み上げられた7トンもの頭髪、うら若き女性のものと思われる三つ編みのブロンド髪、年老いた男性の白髪、その髪の毛で織った絨毯や生地の数々、カメラを構えてもシャツターを押す勇気はありませんでした。

やがて、ヨチヨチ歩きの乳児の可愛らしいブーツ、ハイヒール、軍靴、木靴まで身に付けていたものをすべて剥ぎ取った証が際限なく目に飛び込んでくるのです。障害者の義手・義足、メガネ、トランクの山、その中に一際目立つ持ち主のサインと鮮やかに書かれた1943の文字。

「一体この人たちは前世でどんな悪行を重ねたというのか! でなければ、なぜこれほどまでの仕打ちを受けるか」どうしても自分に言い聞かせ、無理やり得心させなければ次のブースにたどり着けませんでした。

そして、強制労働の囚人が化学工場で作った毒ガスの空き缶や、まだ「チクロンB」が入った缶のショーケースの前に立ったとき、彼らは「このガスで殺されるのだ」と直感したはずです。そう思った瞬間、すべての思考が途絶えていくのが手に取るようにわかりました。

■屠殺システム

ふたたび、プリーモ・レーヴィの詩の後半をお読み下さい。

……………

考えてほしい、こうした事実があったことを。

これは命令だ

心に刻んでいてほしい

家にいても、外に出ていても

目覚めていても、寝ていても

そして子供たちに話してやってほしい。

さもなくば、家は壊れ

病が体を麻痺させ

子供たちは顔をそむけるだろう

(竹山博英訳 )

たった一杯の腐ったスープと一欠けらのパンで家畜以下の残酷な強制労働をさせながら、不要になったと見た途端、送り込まれたシャワー室に似せた高い煙突のガス室。15分か20分後には搬送されるであろう焼却炉と廃油路。その間をつなぐ3台のトロッコ・ドーリーと軌道。何と手順よく設えられた「屠殺システム」であることか。とても狂人の仕業ではあるまい、冷静に仕組まれた「フォード生産システム」の原型ではないのか、ここまで観てくると「人間とは何か」など甘っちょろい議論自体などどうでもよくなってくるし、そんな「傍観者」の議論をしても通じないことだけがわかってきました。

1945年1月27日、南下してきたソ連赤軍に開放されたとき、アウシュビッツで抹殺された名もなき人々の名簿の一部が発見され、そのまま展示されています。わずか6年の間にヨーロッパ大陸に散らばっていた150カ所以上の強制収容所と400万とも600万ともいわれている「灰にされ肥料にされた人々」から見ればほんの一部でした。未だに正確な数さえわからないほどのユダヤ人やロマ人ばかりかナチスに抵抗した人々まで「民族優生学」の名の下に殺戮を繰返していたのです。

ワルシャワから4時間有余をかけてたどり着いた真っ白な平原のうらぶれた町の一角に「国立オシフィエンチム博物館」としてアウシュビッツ強制収容所が、1.5キロ地点にあの忌まわしい鉄道引込線と城郭を模した監視塔がそびえるビルケナウ強制収容所が今も当時のまま残されています。

■ここまで書いてよかったのか

書かずにはいられない思いに駆られながらも、今日まで何一つ書くことは出来ませんでした。それもわずか60年前、ヨーロッパ大陸を狂気の淵に追いやり「人間」が「人間」を屠殺場に送り込んだ「おぞましき事実」を知れば知るほど何を書いていいのかわからなかったのです。

受けた衝撃の大きさもさりながら、どのように書けば彷徨い続ける数百万の人々の「魂」に許しをもらえるのだろうか、ほんの僅かでもいい、許しが請えられるものならば何でもいいと願いながらも結局、今まで書けなかったのです。

とはいえ、この事実を知った者はすべからく書き留め、未だ知らない人々に教える責任があるのではとも考えました。恐らく、友人の簑原氏そして椿氏と2人の娘さんたちも同じことを考え続けていると思います。

お互い「生」ある限りこの事実への答えを問い続けなければならないことも承知しているでしょう。

そして、アウッビッシュを訪れた世界中の人々が「許しがたき事実」を目の当たりにした以上、誰もけっして忘れはしないでしょうし「繰返される歴史」の愚かさに終止符を打ちたいと願うことでしょう。

もう一度、繰り返して申し上げなければなりません。本当に僕ごとき傍観者がペンをとっても許されることだったのでしようか。いまも迷いに迷い続けそこから抜け出せないまま、書かかなければという思いだけで認めたものです。

奇しくも僕たちが凍てつく彼の地を訪れたのは1945年1月27日の解放から60年後の40日過ぎた2005年3月8日でした。(05.03.31)

南出さんにメール E-mail:minamide@aupa.co.jp