三重県の「あかり」昔話
不思議な「あかり」を見物に行った話
(青山町史より)
明治37年2月11日、巌倉発電所が営業運転を開始したが、この前日、我が国はロシヤに宣戦を布告し、いわゆる日露戦争がはじまり、国民がわきかえっていた時、伊賀では、上野の町にはじめて電灯が輝いた。種油の行灯と石油ランプのほかに”あかり”を知らなかった伊賀の人々は、わざわざ上野の町まで、この”ふしぎな灯打”を見物に行くさわぎであったと云う。
自動車をはじめて見た話
名張市平尾3148- 5 藤沢音次郎氏談(昭和57年8川御逝去)
青蓮寺川発電所(後に、箕曲発電所と改名)は、明治40年頃から工事を開始したが、電気機械設備の工事指導は、ドイツ・シーメンス社日本代表ヘルマン氏の指導を受けたようです。
ヘルマン氏は自動車で名張町までやって来たので、この時自動車をはじめて兄ました。名張の町に自動車が入ったのは、あの日がはじめであったと思います。
電気は人間の走るより早くてびっくりした話
名賀郡青山町川上952 松田義晃氏談
私が子供の頃、今日から電灯がつくと云う日、私の友人は、阿保の町に電灯がついたのを見てから、自分の家にも電灯がつくのを兄ようと、約4キロメートルの道を走って帰ったら、もう自分の家にも電灯がついていたので、電気は早いものだと、感心したと云う笑話が、当時はありました。
私の思い出
名賀郡青山町阿保775- 4 福森しずゑさん談
●阿保発電所の社宅
私の父は、阿保発電所が出来る以前から、津電燈に勤めていました。電球交換の伝票を書く事を手伝った記憶があります。阿保発電所が出来てからは、発電所の三軒長屋の、一番奥の社宅に住んでいました。その頃庭に小さい、もみじや桃の木がありました。今もあるもみじや、桃の木がそうです。今でも、発電所の附近を通った時など、近くまで行ってながめる事があります。みんな、みんな、なつかしい思い出ばかりです。
浜島電灯の開業
志摩郡阿児町立神1790 浦谷広己氏談
志摩地方では1番目の電気会社であったので、大正4年7月の開業式には、県庁職貝、警察署長、隣接村長他約100余名が集まり、盛大な開業であった。その夜は町の中心街にイルミネーションアーチ5ケ所を設け、各家は外灯を灯け、造花を飾り、町をあげてのにぎわいであった。
志摩の電気エピソード
志摩郡大王町波切1043- 6 松井楠生氏談
●波切電気所開業
大正10弟、波切村に電灯が始めて灯ったのが、発電所と発電所建設の工事人夫宿舎であり、ランプ時代をすごした老人が、電灯を見て煙草に火を付けようとして「この火は煙草に火がつかん。」と人笑いしたという。その後徐々に波切村に電気が灯き、そのつど黒山の人垣ができた思い出がある。
五ヶ所浦水車発電所
度会都南勢町五ケ所浦1129 正泉寺住職 中世古祥道氏
度会郡南勢町五ケ所浦3138 奥村楠由氏談
五ヶ所発電所は蓄電池電灯(発電所にて蓄電池に充電。これを家庭に配達し電灯を灯した。数日後、蓄電池の取替を行った。)であり、五ヶ所の人が厄年参りで松阪に行き、「松阪の電気は赤い、あれはガスだから赤いのだ」という話しをしていた覚えがある。
五ケ所でも電気の家は少なく、行灯、カンテラ、ランプで明りを収っていた。行灯、カンテラは普通の家、ランプを使っていたのは役場か医者ぐらいで、当時ランプを使う家は特別な家であった。行灯、カンテラは暗くて、カルタ取りができずランプの家に人が集った思い出がある。カンテラ、ランプのホヤ掃除は子供の仕事で電灯が灯いた時に、子供はホヤ掃除から解放されたという。
小杉電気組合
●発電機 直流100V 2 kw発電機 1台
●水 車 4. 5HPフランシスタービン水車 1台
●モータ 1HP直流モーター 1台
●電 球 16燭光電球 50灯
●その他 粉麦摺機 1台
精米機 1台
上記内容については、昭和3年12月小杉電気組合『電気関係書類』として、当地区在住の岩岡弘文氏宅に保存されていたものから抜粋した。
また、弘文氏自身、発電所を見た記憶があり、昭和28年頃まで運転していたのではないか、とのことである。弘文氏のお父さんのご案内で、発電所跡に行ってみたが、水路の一部とコンクリートの水槽が今も残り往時を偲せる。
年代は記憶にないが、ご自身も発電所の運転をされたことがあるそうで、『はじめのうちは、よく故障して苦労した。『百姓ばかりで、電気の事など何も分らんうちに、各戸から
交代で出たが、はじめのうちは調子が悪く、うまく連転出来なかったが、だんだん慣れてきて、機械の調子も良くなり、運転も上達してきたものや』と電気のありがたさより、運転の御苦労話が多かった。