南紀の徐福伝説
南紀には徐福伝説が2か所もある。一つは新宮市。徐福の宮があり、中国風の派手な門をくぐると墓まである。中国や台湾からの観光客が大勢やってきる不思議な場所である。もう一か所は熊野市波田須。「はたす」という地名の読み方からして何やら連想をたくましくさせてくれる。江戸時代には「秦住」「秦栖」などとも書かれていた。アシタバを栽培する人がいる。徐福が不老不死の薬を求めて東の海に渡ったとされるが、その不老不死の葉とはアシタバではなかったかと信じられている。
波田須の地でもう一つ不思議なことがあった。始皇帝の時代に鋳造されたとする半両銭が畑の中から出土し、ある民家で保存されているというのだ。朝日新聞の記事では「日本では、波田須の7枚を含む25枚の半両銭が見つかっている。このうち『大型』は9枚で、現存するのは3枚だけだ。中国でも出土も数少ないという」。徐福伝説は全国で20か所にも及ぶが、半両銭は波田須以外では見つかっていない。
南紀の伝説では、徐福は波田須に上陸し、新宮市に向かい、その一部が黒潮に乗って八丈島に渡ったという。八丈島はアシタバの原産地である。徐福が秦の始皇帝の命令で東方に出港したのは紀元前220年ごろとされる。その時代、日本には朝廷はおろか、稲作さえ十分に伝わっていなかった可能性が高い。つまりわれわれ日本人にとって歴史以前の話。徐福は3000人の人を引き連れて海を渡ったと言い、台風に遭って南紀に流れ着き、焼き物や製鉄の技術を伝えたというのだが、もう少し何か残っていてもよさそうな気がする。偶然だが、この南紀は神武天皇が大和の地を目指して上陸した地点と一致する。