執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

昨年11月、熊野本宮を訪ねた帰り道、新宮市を走っていると徐福公園の道案内があって、あわててハンドルを右に切った。JR新宮駅の南側に朱色と黄色と緑色の“荘厳”な門構えに出合う。紀伊半島のとったんの熊野古道の一角で、中国かと見まがう空間との出会いはショッキングである。

この公園には徐福の墓とともに石像と不老の池がある。敷地には徐福が探し出したとされる不老不死の霊薬「天台烏薬」の木があり、幕末に編さんされた「西国三十三カ所名所図会」(絵師・松川半山)の「新宮湊」の項に描かれた「徐福渡来」の挿絵の石碑まである。さらに熊野川の河畔には徐福上陸の地の記念碑もある。もっともすべて平成の作ではある。

新宮市は熊野古道に次ぐ観光の目玉として徐福伝説を売り出している。あくまで伝統とことわった上での宣伝だから、とやかく言うべきものではあるまいと観念した。

三重県の熊野市にも徐福の墓がある。筆者の生まれた高知県にも徐福が上陸した伝説の地がある。しかし全国に徐福伝説があまたある中で新宮市ほど現世的な徐福を顕彰した地はないと思う。

徐福は、秦始皇帝に命ぜられて不老不死の霊薬を求めて東の海に旅立った2200年前の歴史上の人物である。司馬遷の「史記」にも書かれている。その徐福が大陸を出発したのは事実であろうが、果たして日本にたどり着いたかどうかは歴史には書かれていない。

仮りにたどり着いたとして、日本はまだ縄文時代である。文字もない当時の人々が徐福という文明人と出会って、どう対応したか。もし語り継がれているのだとしたら、その後の史書のどこかに書かれているはずだが、そうはなっていない。にもかかわらず各地に徐福伝説があるということはある時代にそれぞれの地で伝説が創作されたに違いない。

徐福が東の海に出たのは、日本にとって神話の世界のまだ昔の世界ということになるからどうももどかしい。

新宮市の場合、徐福j公園ができたのはこの10年のことだが、江戸時代の絵図にすでに徐福の墓だとか徐福の宮だとかいうのが書かれてあるというのだ。古くは鎌倉時代、元朝の支配から日本に逃れてきた宋の高僧、無学祖元が弘安4年(1281年)ころに自らの境遇と徐福のそれを重ね合わせて書いたとされる詩碑まであるのだからなにやら歴史が深いような気にさせられる。

なにしろ台湾の中国時報にも大きな記事になっているし、徐福の生まれたとされる山東省の龍口市の市長さんまで新宮にやってきて交流を深めているのだから始末が悪い。

このまま100年もたてば、平成期につくられた幾多の石碑は確実に苔むすことになる。そうなるとロマンどころではない、これは歴史になってしまう。そう確信した。

ところが、ことし1月7日付朝日新聞の三重版に興味ある記事が出ていた。新宮市の東にある三重県熊野市の海辺に波田須という地区がある。始皇帝の時代に造られた「大型半両銭」とされる青銅の古銭が民家に保管されているというのだ。

直径3センチ。真ん中には四角い穴があり、その両側には「半」と「両」の2文字が書かれている。1960年代、工事中に7枚出土したとされ、2002年11月、熊野市で開かれた「徐福を語る国際シンポジウム」で「大型半両銭」との確証が得られたという。日本では、波田須の7枚を含む25枚の半両銭が見つかっているが、現存するのは3枚だけだ。中国での出土も数少ないという。

物証まで出て来るとどうだろう。壮大なロマン派ますます現実味を帯びてくるのだが……。

http://www.rifnet.or.jp/~shingu/kankou/k-index.html