雷おこしとギニアに残る奴隷の記憶
執筆者:齊藤 清【萬晩報コナクリ通信員】
【コナクリ発】東京の浅草名物、雷おこしを食べたことがありますか。米と砂糖と水あめと、おそらくはただそれだけの材料で仕上げられた、とても素朴でとりたてて深い味わいもないような、格別なんということのないお菓子です。それでも、ポップコーンのように膨張した米粒の、頼りなくすかすかっとした舌触りと、それをくるんだ水あめのさらっとした甘さが、ひと昔前の東京のお土産が放つきらめく異郷の香りのひとつとして、東京育ちではない人間の遠い記憶の中に、ほのかに固定されています。――その記憶の原点から見れば、現在売られているピーナッツの入ったおこしなど、それは邪道のおこしとも思えるのですが、人の好みは時代によって変遷するもののようですから、あえて声を張り上げる気もなく、またそれは今日のお話の目的でもありません。
◆戦略家サモリ・トゥーレ
ギニアの首都コナクリから国道を北東方向へ400キロほど走ると、急なカーブの続く山道を下った先で風景は一変し、遠くに急峻な山並みを従えた甲府盆地のようなたたずまいの平原が現れます。ダボラという町です。土地の言葉で「ダボの郷」を意味するこの町は、昔ダボ一族が造った町らしいのですが、1800年代終盤、当時ワスルー族の王としてマンディング文化圏で権勢を誇っていた戦略家サモリ・トゥーレに追われ――それは、フランス軍とのゲリラ戦のための戦闘員と物資の徴発のためだったと推察されます――戦わずにその町を明け渡したと、親しくしているダボ一族の末裔から最近何度か聞かされました。
この頃、フランスの侵略軍はすでにギニア内陸部にまで足を伸ばしています。
サモリ・トゥーレは近郷近在の有力者を糾合し、フランス軍へのゲリラ攻撃を続けていました。この動きは一時期かなり成功し、土地勘の希薄なフランス軍兵士たちを悩ませたもののようです。それは、1904年に、フランスが現在のギニアを植民地支配宣言するほんの何年か前のことでした。
ちなみに、1958年にフランスを追い出してギニアを独立に導き、初代大統領となったセク・トゥーレは、サモリ・トゥーレの孫あるいは曾孫にあたる人です。
◆胡麻のおこし
1970年代のある年の乾季、私めはこのダボラに数週間滞在していました。
仕事でたまたまそこにいることになっただけのことで、その土地の歴史背景などまったく無知のままでした。またそれらしい情報や資料を入手できる環境でもなかったのです。
全土的に物資の乏しい時代だったのにもかかわらず、このダボラの町の市場には、いつでもそれなりの農産品が並べられていました。ソースの材料となるマニオクの葉、わけぎ、ニンニクほどに小粒の玉ねぎ、落花生をすりつぶしたもの、燻製の川魚、カボチャ、タロイモ、調味料スンバラの材料となるネレの実を発酵させた団子などなど、ごく日常的な食品を売るテーブルが雑然と並べられた市場の中の、おそらくは市場唯一の菓子コーナーで、毎日数量限定で胡麻のおこしが売られていました。既成のお菓子などとうてい存在し得ない時代の地方の町で、おこしのテーブルは異色の存在に思われました。
このおこしは、西アフリカ起源の胡麻(胡麻は西瓜と同様、西アフリカ起源の植物で、イラン、イラクあたりを経由して各地に伝わったものとされている)
を煎り、この土地で採取した蜂蜜を使って赤ん坊の手のひらほどの大きさの円形に固めたもので、さらっとした味わいは雷おこしとまったく瓜二つでした。
胡麻の香りがなかなかにいい雰囲気を出していました。遠い日本の郷愁を手繰り寄せるような気持ちで、滞在中に何度か、朝早めの時間に買出しに出かけてみたものです。一足違いで、残りのおこしをレバノン人の女の子に買われてしまって、ひとしきり残念に思ったこともあります。
その十数年後、このおばさんが胡麻おこしを商っていたテーブルに立ち寄る機会があって、かつての懐かしいお菓子に再会することができたのですが、つい最近この市場を覗いた時には、あのテーブルはもう跡形もなく消えていました。
それでもある日、首都コナクリで、マリンケ族の小さな女の子が頭に金属の盆を載せて胡麻のおこしを売って歩いているのに出会い、嬉しくなって残りすべてを買い取ったことがありました。尋ねれば、母親が作っているとの返事。
事務所の人間におすそ分けしたら、高地ギニアではけっこう普通に作るお菓子だとの反応がありました。
◆奴隷街道に残るバオバブ
たまたま手にしたMamadouCamara著『Lefloche』を斜め読みしていたら、このダボラの町からさほど遠くない村の名前が出てきました。クルフィンバ。
これは土地の言葉で「大きな黒い岩」という意味になるのですが、その言葉どおりこの村の背後には、お子様ランチの型抜きのご飯のような形で、黒いつやつやした巨大な岩の塊が控えているのです。大地から突出したこの岩の塊は、観光地としてその名を知られたオーストラリアの「エアーズロック(ウルル)」よりもいくぶん規模が大きいように思えます。村からは、この黒い岩の塊に沈む夕日を眺めることができます。
MamadouCamaraは書いています。――個人の意思を剥奪された奴隷たちは、「大きな黒い岩」を通ってやってくる――と。つまりこの村は、大西洋の海へと続く奴隷街道の通過点にある村のひとつであったようです。村の入り口には、海岸地方へ連れていかれる奴隷たちの足跡を静かに眺めていたはずのバオバブの巨木が三本、一直線に並んでいました。――十年ほど前、道路拡幅整備の際に一本倒され、海の向こうの国へ連れ去られた人々の瞳にはたった一度写されただけで、遠い故郷の記憶としてそのまま消えてしまったクルフィンバ村の三本のバオバブは、今は二本だけとなっていますけれど。
このクルフィンバ村よりもさらに内陸の村々から、例えば現在のアメリカの南部、ヨーロッパからの移民集団が先住民から略奪した未開発の大陸へと送りこまれ、あるいは綿花の栽培に使役されたことになります。それがアメリカ建国当時の経済発展の礎となり、同時にポルトガル、スペイン、フランス、英国、オランダ等の奴隷貿易公認国家の富を増大させることに貢献したということになるわけでしょうか。
◆奴隷の積み出し港
アフリカ大陸の内陸部から海に向かう奴隷街道を自らの足で歩かされ、ついに「出荷」のための港に着いた捕われの人々は、そこで船待ちをさせられることになります。
奴隷貿易の拠点として有名な西アフリカ・セネガル沖のゴレ島、ガーナのエルミナ城などはそれぞれに奴隷運搬船待ちのための一時的な収容所であると同時に、競合するヨーロッパの他の勢力からの攻撃と強奪を防ぐための要塞でもありました。
例えば、奴隷貿易の時代のゴレ島の高台に配備されていた巨大な大砲は、錆びてはいるものの、長大な砲身が現在にまでそのまま残されています。その地下室では、砲弾を運搬するための英国マンチェスター製のレールとトロッコの残骸を見ることができます。
そして、どの積み出し拠点にもキリスト教会が建てられていて、奴隷貿易に携わる白人を信仰の面からも支援していた様子がうかがえます。つまり、アフリカの未開の野蛮人をキリスト教文明の恩恵に浴させることが信者の使命であると諭し、信じさせ、あるいは信じたつもりで、人身売買・虐待・虐殺の免罪符にしていたというのが、奴隷貿易を正当化した時代をくくる一般的な説明となっているようです。
これは、世界の隅々にまで「民主化」という名の似非宗教を広め、虐げられた人々を解放することが使命であるとするお題目を唱えながら、日々殺戮に精を出しているどこかの国の狂信者たちとまったく同じ理屈であるように私めには思えます。むろん、目先の餌を求めて狂信者に精一杯尻尾を振るだけの、人間としての誇りを知らないお追従の手合いは論外ではありますが。
◆奴隷を商ったギニア人
実はギニアにも、奴隷を収容し積み出した拠点が今でも残されています。現在の首都コナクリから、海岸線に沿って北東方向へ150キロほど行ったところにあるボファという町に、その古い建物はあります。ゴレ島、エルミナ城のようには整備されていないものの、人間が人間を喰い潰した時代の歴史資料に触れることはできる状態になっています。
MamadouCamaraが書くところによれば、マングローブの茂みに隠れたこの場所は、英国が奴隷貿易禁止法を定めた1807年以降も、さらに数十年間にわたって機能していたとされます。――米国が奴隷解放宣言を公布したのが1863年であることからすれば、それは十分にあり得ることでしょう。
「大きな黒い岩」に身の不幸を呪い、バオバブのある村を通過して海辺の町ボファについた捕われの人々は、この土地の奴隷売買業者の支配下に置かれます。そして手始めに、業者が信頼している有能な呪術師にゆだねられ、その呪術によって反抗心をそぎ、すべての記憶を消し去る処置がなされたといいます。
むろん、部族も出身地も自分の名前さえも。それは、黒人の奴隷業者にとっての、かすかに残る良心を慰める免罪符となったのかもしれません。
――この地の奴隷売買業者は海辺の町の出身者ではなく、私めの観察によれば、内陸の、むしろ連れ去られた人々に近い部族の一団であったように思えます。彼らは内陸から海辺の地――スースー族の文化圏――に移住し、そこに定着して白人に奴隷を引き渡す役目を果たしました。彼らは、姓だけは出身部族固有のものを使っているものの、今では出身母体の文化と伝統は完全に忘れ去り、すっかりスースー族の文化・習慣に溶け込んでいます。そのいくつかの家族と付き合った経験から言えば、気質までスースーそのものになりきっているようです。
このボファの地には、奴隷貿易の時代からの伝統を伝えるギニア最古のカトリック教会があります。地域住民にも信者が多数いて、現在では、キリスト教徒とイスラム教徒との結婚もごく自然に行われる土地柄です。むろんそれぞれの信仰を変えることなく。
◆末裔たちのその後
遠来の奴隷売買業者はこの地でしっかりとした地歩を築き、先祖の血筋は異なるものの、今ではスースー族の社会の中で名家として認知されています。その理由から、スースー族の大統領による現政権下では、すでに複数の末裔が政府高官に抜擢されました。
ある時、その一人を知り合いのギニア人と共に訪ねたことがあります。知り合いの彼は開口一番、「あんたの奴隷はどうしているかね」とその高官に挨拶し、そばにいた私めはその意味が理解できずに、話しかけられた人の表情が一瞬こわばったのだけを記憶に残したことがありました。――その高官は業者の末裔だったのです。知人は前政権の時代に亡命を余儀なくされ、長年の国外生活の後、政権が変わってやっと故郷に戻ってきたばかりの硬骨漢でした。
またある時は、事務所のスタッフと役所に出かけ、そこの長に会うために老齢の女性秘書を訪ねたことがありました。スタッフが秘書に自分の名を告げたとたん、彼女は彼を見つめて、土地の言葉で「ああ、私の奴隷」と人差し指を突き出しました。彼は秘書の姓を尋ねて、「いいや、あんたこそ私の奴隷ではないか」というような意味の言葉を早口で興奮気味に繰り返し、私めはまったく状況を理解できないままに、二人のやり取りを眺めていました。
この彼は、先にお話した、戦略家サモリ・トゥーレに戦わずに破れ、おそらくは手元の奴隷を取り上げられたダボ一族の末裔であるのです。そしてその当時のダボ家に従属する奴隷の子孫の一人がこの秘書であったわけです。
◆胡麻の幻想
そして時折、胡麻のおこしの連鎖を思うのです。高地ギニアで育った子供が、母親の作った胡麻のおこしを食べ、それを記憶に刻み、アメリカ大陸へと送り出され、今度はそこで自分の子供のために胡麻のおこしを作ったのではないかと。その子供も同じことを繰り返したかもしれないと。
アフリカ大陸から連れ出されたほんの何代か前の先祖たちは、アメリカ大陸の富を増すためにその血を流し、その末裔が、今は生きるためにその土地の軍隊に雇われ、世界最大規模のテロリスト集団の一構成員として、飯のために他人の血を流すことを義務付けられている。あるいは自分の血を流さざるを得ない状況に追い込まれている。
もしかすると、そんな状況のわずかな隙間で、彼は、あるいは彼女は、母親が作ってくれた胡麻のおこしの味をふっとよみがえらせることがあるかもしれないと、そんなことを思ってみるこの頃です。
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