執筆者:中野 有【アメリカン大学客員教授】

ワシントンに入り3年目の秋を迎えている。その間、イラク戦に猛進する力のアメリカ、イラク戦の泥沼化と反米主義が蔓延し一国主義と孤立化が進むアメリカ、そして大統領選を通じ保守とリベラルが見事に分断するアメリカを目撃してきた。

アメリカには、本来、独立記念日の7月4日の自由と平等と民主主義のイメージがあり、世界をひきつける魅力を備えた国家である。しかしながら、国際政治・経済・軍事・科学技術の分野を支配し、一極体制を構築したアメリカが、9・11同時多発テロの中毒症状と後遺症に悩まされるとは、誰が予測したであろう。

アメリカに対抗できる唯一の超大国は、中国であると多くの専門家が主張している。アメリカが西洋の代表であるとすると、東洋の代表である中国や日本との関係において、どのような東西の調和が成り立つのであろうか。太平洋を挟む歴史的潮流を孫文、周恩来、鄧小平の偉業と70年前に鶴見祐輔が語る坂本竜馬の視点を盛り込み考察してみたい。

中国の上昇

20年前の日本は、「ジャパンアズナンバーワン」としてアメリカから羨望される存在であった。まさに現在の中国は、かつての日本が経済的脅威をアメリカに与えたような注目される存在であると同時に、中国はアメリカにとって戦略的競合国である。冷戦中のソビエトは、「悪の帝国」としてアメリカと勢力を均衡する超国家であった。この20年の傾向として、経済不況から抜け出せぬ日本と冷戦に破れたロシアの地位が下降し、着実な経済成長を続ける中国と、冷戦に勝利し覇権主義を強化しているアメリカの地位が向上した。米国と中国の2国が上昇し、日本とロシアの2国が下降した「二つの上昇と二つの下降」の国際情勢にある。正確には、9・11の後遺症から抜け出せぬアメリカを中国が追い上げている状況である。

このようにアメリカと中国が競合する状況において、両国の特徴を一つだけあげるとすると、世界で最も歴史の層が厚い中国と大国として最も歴史の浅いアメリカとの温度差の関係である。中国の文明をひもとくと、世界最古の文明が7千年前に発祥し、儒教を生んだ周王朝(BC11―BC3世紀)、中国人の8割が漢民族と考えるその礎の漢王朝(B.C3―A.D3世紀)、国内が混沌とする三国六朝時代(3―7世紀)、インド、アフガニスタン、朝鮮半島も支配下に入れ、日本との交流を深めた唐王朝(7―10世紀)、最初の歴史文献を描いた宋王朝(10―13世紀),モンゴルに支配されマルコポーロが訪れ、九州まで来襲した元王朝(13―14世紀)、西洋との交流を深めた明王朝(14―17世紀)、満人が支配し最後の王朝となった清王朝(17世紀―1911)。

一方のアメリカは、1620年にイギリスから清教徒が信仰の自由を求めメイフラワー号で新大陸に到着し、その後、150年以上を経て1776年に独立国となったのがアメリカである。

東西思想に精通した孫文、周恩来、鄧小平

中国と台湾の両方から尊敬される人物は、建国の父、孫文である。孫文は、ハワイ、香港、マカオ、日本、ヨーロッパを翔ながら三民主義を掲げ、1911年の辛亥革命を実現させた。アメリカ、日本、ヨーロッパに明るかった孫文は、東洋と西洋の思想を包括する「大アジア主義」を提唱した。孫文は日中提携によるアジアの復興を訴えている。

「今後、日本は世界の文化に対して、西洋覇道の犬となるか、あるいは東洋の王道を守る干城となるか、日本民族として慎重に考慮すべきである」。これは1924年の神戸女学院における孫文の講演の要諦である。

孫文を始め中国の歴史を変えた人物、例えば周恩来や鄧小平は東西の思想と文明に精通している。毛沢東の右腕として外交手腕を発揮した周恩来は、東京とパリの留学経験を持つ。

60年代の中国は、北はソビエトと国境で紛争を起こし、東は、アメリカが防衛する朝鮮半島、そして台湾問題で敵対し、南はベトナム戦争、西はインドと国境紛争の最中にあった。中国と親交のある国は、アルバニア、北ベトナム、アフリカの数カ国という四面楚歌の状態であった。

このような状況の中、アメリカとの国交正常化のために貢献したのは、日、仏、独、英に滞在した経験を持ち、アフリカを歴訪した周恩来である。周恩来は、米ソ中の関係において、ソ連を中国の危険因子と考えた。米ソの冷戦構造の最中、1971年にキッシンジャーが訪中し、米中の共通の利益の合致点、すなわち対ソ政策による「中国封じ込め政策」の放棄、アメリカのベトナム戦争の泥沼からの脱出、中国の孤立化の打開、中国の国連加盟が話し合われ、翌年のニクソンの上海コミュニケでそれらが実現されるのである。

米中の外交の共通の利益の合致点を見いだしたキッシンジャーと周恩来のピンポン外交は、まさに東西文明の調和である。「ニクソンショック」の影響で日中国交回復が実現されたが、日米同盟という固い絆があるにも係わらず日本と協議なしで米中が接近したという事実は、今日の朝鮮半島問題の教訓とすべきであろう。

鄧小平は、モスクワとパリの留学経験を持ち、毛沢東の後、中国の近代化路線と改革開放政策を成功させた。特に、1989年の天安門事件後、人権問題を理由に西側諸国が経済制裁を強化する中、 鄧小平の相互信頼と協調を重視する穏やかな外交で、日中関係の重要性を基軸に経済交流を推進し、中国の着実な経済発展を実現させた。鄧小平は、日本の経済発展を賞賛すると同時に、日本に対し日本のすぐ近くに世界でも最も貧しい国があることを忘れないで欲しいという主旨のことを歴史の諦観として語ったのである。その後、日中の経済交流が勢いを増したことは言うまでもない。

孫文、周恩来、鄧小平に共通するのは、世界を翔けながら東西思想に達眼したところにある。当時の日米仏露には、中国の人物を受け容れ育む土壌があった。中国の偉人との交流は外交、安全保障の観点からも東西の交流が如何に重要であるかを示した最高の例であろう。戦前の日本には、人物を育てる意味での人間の安全保障が存在していたことが考察できる。

70年前に鶴見祐輔氏が考察した竜馬の思想

歴史を学ぶ最善の方法は、本人直筆の論文から現場を経験した行動に伴う思想やビジョンを読みとることである。そこには教科書や抽象的一般論からは得ることができない歴史の潮流が潜んでいる。70年前に出版された非常時国民全集の中に鶴見祐輔氏の「世界外交の危機1936年」という50ページにわたる論文がある。これを古書店で見つけた。その結びに竜馬が登場する。論文の結びだけが小説風である。この傑作を以下できる限り原文にそって要約する。

懐手をして海を見ていた男が、くるりと後ろを向くと、「どうだ、おもしろい世の中になってきたね」と爽快な南国弁で大きく言った。どこか見たことのある顔だ。そう、坂本竜馬だ。

「ほう、お手前もそのことを考えていたのか」と、これは歯切れのいい江戸弁だ。勝海舟だ。

「もう一遍桂浜に帰りたいなあ。我々はちと早く生まれすぎたな。あの時分は、ご一新と言っても、なにしろ舞台が小さかった。それがどうじゃ。今度は世界が相手、徳川でも新撰組でもない。相手は世界の一等国ばかりじゃ。この大きな舞台に出て潮に乗る今の若い奴等がうらやましい。

1936年は単純な海軍競争でも陸軍競争でも、一国と一国の争いでもない。全世界の根本的見直しの序幕じゃ。上手な作者は、序幕を先に書きおらん。まず一番おしまいの第5幕を書き下ろす。つまり、どう幕切れを付けるか芝居のねらいどころじゃ。日本民族の千年後の結論をどこに持っていくか、それが大切なのじゃ。

日本民族の大仕事は、太平洋文化の建設じゃ。東洋と西洋の文化を悉く取り入れて、日本精神をもってこれを大きな新しいものに作り変える。それが日本民族の運命・使命なのじゃ。日本は東洋でも西洋でもありはせん。日本は日本なのじゃ。だから東洋と西洋とを我が大腹中に包み込む気迫がなくてはいかん。

ポスト9・11の国際秩序の再構築がスタートした。日本はアメリカに追随することも、中国のパワーに飲み込まれてしまってもいけない。西洋や東洋といった垣根を乗り越え、アジア太平洋といった平和のパシフィックにアメリカと中国を包み込むことが大いなる日本の外交の良策となるであろう。東西の交流を基軸としながらアメリカと中国を調和させる太平洋文化の建設こそ日本の道であると確信する。
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