執筆者:藤田 圭子【早稲田大学政治経済学部3年】

私には故郷が二つある。一つは実家のある愛媛県宇和島市遊子(ゆす)水荷浦。もう一つは祖父母の住む宇和島市日振(ひぶり)島能登(のと)。
この故郷・日振島はかつて海賊と呼ばれた藤原純友がいた。私は知らないけれど、大河ドラマで純友が放映されたことがあるらしいのでご存知の方もいらっしゃるのではないだろうか。
私たちは「海賊」という言葉に「悪」というイメージを抱かない。西洋の海賊とは別格だと思っているからだろうか。日振出身の母を持つ私を「海賊の子孫」だと冷やかす人もいるが、それがどこか心地良くもあるのは、そんな悪のイメージを抱いていないからなのかもしれない。 藤原純友は伊予の海に海賊が横行していた承平のころ(931~937)、海賊を取り締まる伊予掾として伊予の国に着任した公家だった。紀淑人という伊予守の下で海賊鎮圧に当たっていた純友がどうして海賊になってしまったのか・・・
海賊の実態を彼が知っていたからだと言われている。律令政府の政治の執り方、当時の社会情勢を知っていた彼が改革の必要性を感じたのだと。そして、瀬戸内海を中心とした海域で新しい政府、海上王国を作ろうと夢を見たのだと。 当時の瀬戸内海の漁民は家族全員で、小さな小舟に乗って、船上生活をしながら集団で漁業を営んでいた。漁網も共有の氏族共同体だった。漁だけではなく、海岸近くの陸地に上がって田畑の耕作もしていた。
しかし、立地条件のよい豊穣の土地は、既に政府の公田となり、貴族の私田となっていて、みだりに開墾耕作することができなかった。同じように漁場も政府や貴族・役人に従属する漁民がいて、それらの漁民の漁場からは締め出し、追い払いを受けるような状態にあった。
瀬戸内海々域で暮らしていたこういう漁民集団のうち、海からも陸からも締め出しを受けた漁民たちは、制限の少ない豊後水道や熊野灘に生活の場を求めて移動していった。中には朝鮮海峡の沿岸、韓国にまで移動していった者たちもいたという。
豊後水道などへ逃れた漁民集団の中には、政府の公田や貴族の荘園から都へと運ばれる貢租を積載した船を襲って掠奪するようになったものがいた。こうして、彼らは「海賊」と呼ばれる漁民集団になってしまった。この集団をまとめていたのが藤原純友と言われている。
中央政府が権力を持ち、それが絶対に正しいとされる限り、真実が見えないように思う。史実として、中央政府から見た史実から海賊を捉えると、こういう見方は出てこない。これは『日振島のはなし』という日振の家にあった小さな本に書かれてあった純友に関する記事だ。地域に残る伝承と中央政府の書き残した歴史書とどちらが正しいのか判断しかねる。中央に残る史実が正しいのかも知れないし、この本に書かれてあることが正しいのかも知れない。
全ての価値が中央に求められる危険性を感じる。今の社会、田舎に行っても都市部の情報が朝から晩まで流される。人々はそれに流されてしまっているようにも思う。地域に価値がないのだと思っている人が私の周りには多い。テレビに出て、本を出し、マスコミの中で有名になることが良いことだと思っている。そうではなく、地域に生き、その中で顔が見え、相手がわかる暮らしをしていくことでも幸せを掴むことができると私は信じている。
祖父が魚を釣り、祖父母が協力して加工していく島の生活。未だに味噌を作り、餅を搗き、祝い事を欠かさない祖父母の生活。いつまで残すことができるだろう。戦争に行き、出稼ぎに行き我が母たち5人姉妹を育てきった祖父の手はとてもとても輝いている。こうした身近な存在を尊敬できる幸せ。中央の価値観が席巻する中で失われているものが多いように思う。身近なところに目を向けると中央の価値観では見えないものがあるはずだ。もっと周りを知る機会を作り、共有し、次の世代にも知ってもらおうと思う。
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