溶鉱炉のあるギニアの村にて
執筆者:齊藤 清【萬晩報通信員】
萬晩報通信員 齊藤 清
【コナクリ発】夜の赤坂一ツ木通りあたりで、「ねえ、社長さん」などと声をかけられたら、ましてやそれが深いスリットの入った黒いドレスの妙齢の女性であったりしたら、これはちょっとご用心、ということになる。むろん新宿歌舞伎町界隈の、「ちょっと旦那」あるいは「オニイサン」と呼びかける手合いだって、同様の危うさを秘めている。
これがギニア・コナクリであって、昼間そのあたりの市場でも歩いている場合だと、「パトロン、いいものがあるよ」とか、「パトロン、こっちこっち」とか、そんな声が四方からかかってくることになる。
むろん同じギニアであっても、場所が変わり、会話の相手が変われば、パトロンが大統領を意味することもあり、そんな場合には彼に調子を合わせ、「我々のパトロンは・・・」と仲間意識を鮮明にして迎合し、相手をくすぐってやる、ということもないではない。
パトロンという単語を手元のフランス語辞書に尋ねてみると、店の主人、経営者、親方などという解釈がまず現れていて、日本で密やかに使われる傾向のある保護者、庇護者といった意味合いでの特殊な用法はずっと後のほうに出てくるもののようだ。
ともあれ、フランス語圏でのパトロンという呼びかけは、日本での用例よりはずっと幅広い内容が含まれていて、それほど特殊なものではないらしい。
◆わが師マンサ
ある朝、それは日曜の朝だったのだけれど、キャンプの食堂で朝食をすませ、腰を上げずにそのままギニア人スタッフとお喋りをしていると、待ちくたびれたような表情の男が「パトロン、おはよう」と呟きながら顔をのぞかせた。彼は絶対に私めの名前を口にしない。いつも、パトロン、と呼びかける。「あんたたちのパトロンのように、カミさんが三人もいないし、軍隊の指揮権もないし、ましてや風光明媚気候清涼なフータジャロン(中部ギニア地方の総称―西アフリカのスイスとも言われる)にキラキラのお城など持っていないから、パトロンと呼ばれる資格はない」と宣言しても、彼はただニヤニヤするだけである。
彼の名前はマンサ。この地方には昔、マンサ・ムーサという名前の著名な王様がいたから、その名を借りたものかもしれない。また、その昔、ケイタという姓のやはり著名な王様が覇を唱えていた時代もあり、キャンプ地の村が当時の首都に程近いことから、その末裔であるとでもいうように、この村の家々はすべてがケイタ姓である。より正確には、生まれながらにグリオとしての職掌を果たすことを運命付けられたクヤテ家(現代では、村の儀式の補助をする程度の役割)と、たまたまどこかから流れてきて村のはずれに住みついたフラ族の牛飼いの一家と、あわせて二家族だけがケイタ姓ではない。ついでに言えば、両隣の村も、ケイタ姓と、それに付随するとされるクヤテ家だけである。それで彼の姓はケイタ。マンサ・ケイタである。多分。さらに蛇足ながら、私めの現地名はサイトウ・ケイタ。
マンサは鍜冶の家系の出身である。もっとも、父親の時代で鍜冶本来の仕事はその役割を終えたものらしく、マンサ自身は今は我らがキャンプでパジェロの運転手をしている。それでも門前の小僧としての鍜冶の知識と、学校では教わることのないさまざまな情報をたっぷりと蓄えている。それをひけらかすことはないけれども、訊ねればたいていは期待にこたえてくれる。還暦をいくつか超えているはずだ。大学出のギニア人スタッフとは引き出しの中身の厚みが違う。――むろん彼らもそれなりには優秀なのだが。
そのマンサと、山へ行く約束になっていた。車の走れる道ではない。目的地までの距離を訊いたら「パトロンなら歩ける程度」としか答えない。それじゃ何時に帰ってこられるかと問えば、欠けた歯を露わにし、冷やかすようなしわがれ声で、「夕暮れ前には」と歌う。
私は私で、小さなリュックに水とフランスパンと鰯の油漬けの缶詰(モロッコ製が村の雑貨屋でも買える)、タオルと小型のGPSと愛用のコンパクトカメラを投げ込み、腰には歩数計をつけ、ポケットにはナイフをしのばせ――蛇との戦いに備えて――、すっかり小学生の遠足気分。小さな懐中電灯まで用意した。
◆トゥドゥ・ララン
朝から気温はかなり上がっているけれどそれはいつものことで、強い日差しも気にはならない。ゆっくり歩こう、という枕詞をつけての出発ではあったけれど、痩身のマンサは後ろも見ずに飛ばす。明るい林の中の細い道ではあるものの、踏み固められていてさほど歩きづらいことはない。起伏も少ない。空気が乾燥しているから汗が流れ落ちることもない。着ているシャツはいつもサラサラである。
セミ時雨が耳の奥に染み付いたまま、マンサの踵ばかりを追いかける時間が過ぎて、一息つきたいと思い始めた頃、路肩に蘭の仲間とおぼしきあでやかな黄色の花を見つけ、マンサに声をかけて歩みを止める。この地方でも、季節ごとにそれなりの花がつつましやかに踊ってくれるものの、たいていはかなり地味な装いである。時に、瞳に花の色が写りこんでしまうような派手なものもあるけれど、数は少ない。マンサに花の名前を尋ねると、土地の言葉マリンケ語で「トゥドゥ・ララン」、日本語にすると「蛇のねぐら」とでもいうことになるらしい。このあたりの山に十年ほどいて初めて見る花だ。
長さ十センチもないような細身の葉を四枚だけ放射状に地面にへばりつけて拡げ、その中心から直接に、まさに地面からまっすぐにトランペット形の花を天に突き出している。その高さは三十センチほどか。口径は五センチくらい。
すべてが花で、茎らしいものが見当たらない。鎌首をもたげた蛇の図、とでもいうのか。その花の二、三株の集落が、五百メートルほど歩く間に十ほどあっただろうか。乾ききった大地の木陰に点在する至福の眺めである。
横道にそれたままで座り込んでいたら、マンサが軌道修正して、「パトロン、日が暮れるよ」と歌う。たしかに今日の目的は花ではない。しかし、心惹かれる花があれば、それを愛でるのも悪くはないだろうに、と独り言。
◆溶鉱炉の遺跡
歩数計が九千歩に近づいたあたりで、村の裏手でも見たことのある粘土造りの溶鉱炉が姿を見せた。製鉄をやる炉である。直径一メートル、高さが一メートル半ほどの尻がすぼんだ細身の素焼きの壷を、逆さにして地面に伏せたような形。壁の肉厚は二十センチほど。この土地でよく見かけるシロアリの塚を、人間がまねて作ってみたような造形でもある。地面に接した部分をくりぬいて、高さ二十センチほどのアーチ型の空気採りの窓が、壷を一周して七個ついている。
初めに見た炉は、先端部分が少し欠けているだけで、精緻に造形されたものとは言えないものの、それでも充分に端正な形を当時のままに残していた。これは製鉄作業を終えた後の放棄された炉である。高温で焼かれた後の粘土だからこそ、長い年月の風雨、太陽の強烈な熱射に耐えて、現在にまで姿をとどめてきたものにちがいない。いつの時代に作られたものかは知らない。溶鉱炉は常に消耗品であり、この炉そのものは、それほどには古くないのかもしれない。
山道から四、五十歩のところに、ほっそりした姿の炉が二基残っていた。土地が痩せているから、炉の周囲には丈の低い草がまばらに生えているだけ。そこからさらに四、五十歩離れた場所には、いくぶん太り気味に見えないでもない炉が三基、隣り合わせに並んでいる。手前の二基と立ち姿が違って見えるのは、炉の製作者の手の違いによるものか。
ここに残されていた都合五基の炉には、今までには見たことのない特徴があった。炉の壁を作るとき――下から粘土の団子を積み上げていくときに、手のひらの大きさほどに割った鉄滓(てっさい)のかけらをいくぶん規則的に並べ、粘土の壁にびっしりと封じ込めてある。外壁には、黒いかけらの一端がまったく無頓着に飛び出したままになっている。。褐色の肌に、割れ目の不規則な艶々した黒い岩の塊がごっそりとはめ込まれている感じだ。内壁には、半壊した炉の壁を見るかぎり、鉄滓のかけらが飛び出しているようには見えないけれど、あるいは高温で溶けてしまったのかもしれないし、確かなことは言えない。粘土を節約するためだったとは思えないから、鉄滓の黒い塊には何らかの別の役割があったのだと思う。
◆西アフリカの鉄
1993年、パリの「アフリカ・オセアニア博物館」で開催された『ニジェ
ール川流域展』のカタログには、西アフリカ・ブルキナファソ共和国で撮られた「古い溶鉱炉」というタイトルの写真が載っている。炉の形は、造り手の個性のせいか、キャンプの村のものとは微妙に表情が異なるけれど、基本的な形、大きさに違いはない。炉の外壁は粘土だけで仕上げられている。
以前、ブルキナファソの金鉱山視察に行ったことがある。コナクリ空港から、ローカルの飛行機を乗り継いで行ったもので、かなり面倒な旅程であった。今あらためて周辺国の地図を眺めてみたら、キャンプ地からブルキナファソのあの場所までは、陸路で八百キロ程度のものだ。
あの山のふもとの村では、鉄滓(鉄鉱石から鉄をとったカス)を石垣のように積み上げて、土地の境界を表示する用途に使っていた。放棄された溶鉱炉を見る機会は得られなかったものの、そこが製鉄をやっていた土地であることを強く印象付けられた。また、あの土地で喋られている「ジュラ語」は、キャンプ地の言葉「マリンケ語」とまったく同じものであったから(おそらく)、どちらも同じ文化圏に属していると言えるのだろう。
このキャンプの村から九千歩ほど離れた「製鉄所跡」の五基の炉には、鉄滓を使って何らかの意味を持つのであろう細工、あるいは工夫が施されていたけれど、村の裏手のマンゴーの木の下に残されている古い二基の炉は、ブルキナファソのものと同じく粘土だけでできている。
『ニジェール川流域展』のカタログは、この地域では紀元前2000年頃から鉄を生産していた、と解説している。ちなみに、中国での製鉄の歴史は、紀元前600年頃に始まったとされているようだ。
◆金と鉄の関係
たしかに、鉄の道具がなければ、村人が西アフリカのこの地で金の採掘をすることは無理だった。川での砂金採りはその成果が微々たるものであるし、山で掘るとなれば、地面を覆っているラテライトの固い岩盤を掘り進む必要がある。現代の村人は、二十センチほどの鉄の歯に短い木の柄をつけた片手用のツルハシで、岩も、固い粘土層も、やわらかいカオリンの層も、すべて掘り崩していく。この極めてシンプルな道具の形は、ずっと昔からほとんど変化していないのではないだろうか。
昔、エジプト、北アフリカ、ヨーロッパ方面へ、この地方から金の供給を続けることができたのも、鉄があったおかげである。金を生産する以前に鉄の存在が必要とされた。
わが師マンサの後についてゆるい斜面を昇り、すぐ近くの薄暗い林に入ると、小さな横穴が二つ。「蛇がいるかもしれない」とマンサが言うものだから、横穴の入り口あたりに転がっている岩のかけらを二つ、三つ拾っだけで、穴の中を覗くのは止めにした。ここが鉄鉱石を掘り出した跡になる。
この鉄鉱石と、その辺りに生えている木から作った木炭を、炉の中へ交互に積み上げてから火を入れる。すると、しだいに炉の中の温度が上がり、数日の後に、還元された鉄の塊が手に入る。「ふいごはどうしたのだろうか」とマンサに尋ねると、彼は自信を持って、「必要ない」と答えた。彼自身は製鉄作業をしたことはないらしいのだけれど、感覚的にそのように理解できるのだろう。
とすれば、比較的低温で、例えば1000度、あるいはそれよりも低い温度で鉄を還元したことが推定される。モノの本によれば、その程度の温度でも可能なことであるらしい。
ここでできた鉄の塊を木炭の火で再び熱して(これにはふいごが必要だ、とマンサは解説する)、トンテンカンと打ちたたいて鉄の道具をこしらえる。
◆ヌオイ・ダマンダ
西アフリカの歴史の本にしばしば特筆される特殊な身分としての鍜冶の家系は、単に鉄の道具を作る技術者というよりも、製鉄技術を受け継いでいる人々であるということに、より大きな意味があったのだと思う。鉄が、金の生産、農業生産、時には戦いの道具として、古代からこの地の人々の生活の基礎を支えてきたことが、鍜冶の家系を敬う雰囲気を醸成したのかもしれない。
帰り道の木陰で、フランスパンに油漬けの鰯をはさんだサンドイッチを頬張りながら、マンサがぽつりと言った。「このあたりはヌオイ・ダマンダと呼ばれている」と。
マンサがまだ幼い子供であったころ、彼の父親がこの山で金を見つけた。それで、山の精霊に金を掘る許しを得るため、一カ月間ほどこの山にこもった。
ある夜、精霊が現れて、彼の父の願いを聞き入れた。彼は村に戻り、村の長老にそれを告げた。その時からこの山は、彼の父の名前ヌオイをとって、「ヌオイ・ダマンダ」(ヌオイの鉱山)と呼ばれるようになった。今でも村人がこの山で金を掘っている。
4000年の鉄の歴史を今に伝えている西アフリカの、小さな村の遠い昔の記憶に、そっと触れることのできた一日であった。(『金鉱山からのたより』2004/07/18から転載)
齊藤さんにメール E-mail:bxz00155@nifty.com