「人質バッシング」後日談
執筆者:美濃口 坦【ドイツ在住ジャーナリスト】
5月18日付けの南ドイツ新聞に「右翼的思考の人質」というのタイトルの力作が掲載されていた。この記事はイラクで人質になった人々に対する日本国民のバッシングがテーマである。この事件も、ヘンリク・ボルク記者の眼には、他の事件、例えば学校で国歌や国旗が義務づけられるようになった現象とともに、日本社会が右旋回して「右翼的思考の人質」になる日本人がふえつつある兆候になる。
日本でバッシングの話題が下火になってからも、この記事だけでなく東京発のジャーナリストの力の入ったルポや記事が放送されたり掲載されたした。そのような事情からバッシング事件について周囲のドイツ人と話したり、前回私が書いた「人質バッシング」で多数の人々からいただいたメールを読んだりしているうちにいろいろなことを考えさせられた。今からその一部を記す。
■二つの国策
自衛隊派遣は国会を多数決で通過した特措法によって決まった「国策」であり、人命尊重のためにこの「国策」を変えることなどできないと、メールの中で書かれた読者が多数いらっしゃった。こう考えるのは、おそらく頭の中に天秤のようなものがあって、その一方のお皿に「国策」が、他方のお皿に三人の日本人の「人命」が乗っかっているのではないのだろうか。
「強い国家」を感じたい人には、この竿の「国策」のお皿のほうが下がり「国策の変更などもってのほか」ということになる。反対に「平和主義者」とか「左翼」とかあるいは「市民主義者」とか呼ばれる人々にとって、天秤の竿は「人命」のお皿のほうでぐらりと下がる。下がり方とてつもなくエスカレートすると「人命は地球より重い」というセリフになる。
ということは、日本でもう半世紀以上も前から対立している二つの立場に共通点があり、それは、どちらも、天秤の一方のお皿に「国策」を、他方のお皿に「人命」を置くイメージで問題を見る点にある。(またこれは日本でよく見られる「公vs私」の議論の図式に通じる。どんな意見も、どうしてもこの図式で押し込まれてしまい、またそうしないと多くの人々は理解した気にならない。)
でも私は昔からこのイメージで事態を見ることがおかしいと思っている。なぜかというと、自国民の人命尊重も国家の基本的政策でりっぱな「国策」だからである。自衛隊イラク派兵と異なり、人命尊重のために特措法は制定されなかった。そうであるのはその必要がないからで、憲法第13条の中に「生命、、、、に対する国民の権利については、、、、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあるからだ。
日本では憲法が嫌いな人がたくさんいるのでいうと、人命の尊重は、憲法に書いてあろうがなかろうが、昔から国家の重要な存在理由で、そうでない国家などは取り柄がないことになっている。
こう考えると、天秤のお皿に乗っかっているのは、「国策」と「人命」ではなく、「イラク復興人道援助」と「危険にさらされている自国民・人質の人命尊重」という二つの「国策」である。
■「人命は地球より重い」
それではなぜ私たちは天秤の一方のお皿に「国策」を、他方のお皿にいわばむきだしになった「人命」を置くのだろうか。これについて考える前に、私たちが本当にそうしているかどうかを検証する必要がある。もしかしたら私が勝手にそう思っているだけかもしれない。天秤のお皿の上には「人命」でなく「人命尊重」の国家の政策という意味で「国策」が乗っかっている、私たちは頭の中で省略しているだけだ。そう反論する人が当然出て来る。
この検証のために、私たちは一度有名な「人命は地球より重い」という文句を頭の中に浮かべてみるべきである。私たちはこのセンテンスを慈悲深さの表現と感じるの普通である。だからこそ「世の中はそんな甘いものではない」という人が出て来て、それに「慈悲深さがないと争いがいつまでもなくならない」と反論するのが議論のパターンである。
これは政治的議論ではないが、議論がこうなるのは、天秤のお皿の上に乗っかっているのが「人命」一般で、「人命尊重」という国家の政策、すなわち「国策」でないためである。私たちが「人命は地球より重い」が国策だと思っているのなら、この文句が時にはおそろしい意味になることを感じることができるはずである。(その結果、こんなオーバーなことをいえなくなる。)この文句を掲げる国家は自国民の「人命尊重」のために戦争をするばかりでなく、地球の破壊まで辞さないことにならないか。(事実、昔欧米諸国はこれを口実に植民地戦争をはじめた。)
日本では普通こう考えない以上、私たちは天秤の一方のお皿に「国策」を、他方のお皿にむきだしの「人命」を置くというイメージで議論していることになる。
次にもう少しこの天秤を眺めると奇妙なことが気にかかる。それは、お皿に「人命」を置きその尊重を要求する人々が最初から「国家」という城をあけわたしてしまい、まるで国家体制の外にいるかのよにふるまっている点だ。これは1947年以来主権在民の憲法が施行されているので奇妙なことである。
現実のほうはそんな戦前の日本国家的体制でないのに、議論ののほうは前の時代の図式のままで、このように議論を続ける限り、日本で「平和主義者」とか「市民主義者」とか呼ばれる人々は、この半世紀の歴史がしめすように、勝ち目がないのではないのだろうか。それどころか、(今回外国人記者が心配した)日本社会の右旋回を間接的に推進していることになるかもしれない。
■日本的道徳観
人命の保護や安全は昔からある国家の課題である。そのために、どこの国の人でも、国家に国民の人命を尊重する義務のようなものがあり、国民の一人一人に国家にこの義務の遂行を求める権利らしきものがあると漠然と思っている。今回の多くの日本人は、人質になった三人がこの普通なら認められている権利を自らの不注意な行動によって失ったと考えたのではないのだろうか。
例えば、今回多数の日本人は、人質家族に自分の要求をいう前に「ご迷惑をかけた」と謝って欲しいと思ったそうである。日本的道徳観と呼ぶべきものがあり、それによると謝罪によって一度失われた権利が(少しは)回復すると考えられていることになる。またこの考え方によると権利が失われているのにそれに気がつかないことは無知で厚かましいことになる。
日本では説得力を発揮するこの道徳観は欧米人からは理解されにくいかもしれない。というのは、彼らの考えでは、国家に対して人命保護を要求する権利は人権であり、本人が人間であることから発生し有効とされる権利で、本人の行動と無関係と見なされているからである。
注意深いとか、きちんと自分の「安全管理」をするとかいったことは個人の能力であり、その実行は個人の業績である。今回のバッシングで見られた日本的道徳観とは、このような業績・能力主義を欧米的人権より上位に置く考え方である。
昔私が日本で暮らしていた頃、国立大学の入学試験はコネもきかず公正なものとされていた。東大に合格しなかった子どもの親が集まって記者会見を開き「教育の機会均等」を主張し不合格に抗議している場面を想像してほしい。それをテレビで見た人々があきれる。この場面と似たように、今回多数の日本人は人質の家族に反感を、バッシング側に共感をおぼえたのではないのか。
このように見ると、今回のバッシングは日本的道徳が(「人権派」が想像する以上に)強いことをしめしても、だからといって大多数の日本人が「右翼的思考の人質」なったとはいえないことになる。でもすでに述べたように、戦前の日本社会が今でも存在しているかのような議論の図式を今後も続けているとその危険も無視できないかもしれない。
美濃口さんにメールは E-mail:Tan.Minoguchi@munich.netsurf.de