木遣りの唄い手、今いずこ?
執筆者:色平 哲郎【アイザック事務局長(佐久総合病院内科)】
五月の連休に諏訪へ下り、「御柱(おんばしら)祭」を見てきた。
全国に一万社以上あるといわれる諏訪神社の”本家”に当たる「信濃国一之宮」諏訪大社(上社かみしゃ、下社しもしゃ)では、寅(とら)と申(さる)の年に(実質六年に一回)、御柱の祭事がとり行われる。モミの巨木とともに、氏子たちが山の急斜面を豪壮に駆け下る様を映像で目にされた方は、大勢いるだろう。あの「木落し」のクライマックスが強調されがちだが、祭りは準備から本番まで、実に四年がかりである。
まず、主役の「御神木」を選ぶ「見立て」が行われる。上社は、長い間、御柱に適したご用材を八ヶ岳・御小屋(おこや)山の大社社有林から選び、伐りだしていたが、御柱にふさわしい巨樹が減り、九八年の祭事から、下社と同じように、下諏訪町・東俣国有林で選定するようになったらしい。厳密な見立てを経て伐採されたご用材は、棚木場(たなこば)まで運ばれ、いよいよ本番を迎える。「山出し」で御柱は里に下ろされ、大勢の人たちが綱で引いて社殿に運ぶ「里曳き」へと移る。そして御神木として垂直に立てて固定する「建御柱(たておんばしら)」で、祭りに幕が下りる。
今回、目にしたのは下社・秋宮(あきみや)の「里曳き」だった。長さ一六メートル、直径一メートル以上、重さ一〇トンを超える大木を、コロも使わず(水はかけるが)、数千人の人力だけで曳いていく。街道を埋め尽くした人々が、長さ三〇〇メートルの綱を曳く。巨大な綱引きは圧巻だった。これだけの重い塊になると、全員の力を瞬時に合わせないとビクともしない。そこで鍵を握るのが「木遣り」の唄だ。祭りの節目節目には必ずこの木遣りが流れてくる。「見立て」の際、巨樹が林立する深山に響く木遣りは「幽玄」の一語。「山出し」のそれは精神を高揚させる。「里曳き」で木遣りが唄われると、「よしっ、曳くぞ!」と心の準備が整い、一斉に力を結集できる。労働歌としての木遣りが内包する「力」が、曳き手たちに伝わり、御柱が動いていくのである。唄い手は、木遣りで巨木が動き出す瞬間に、至福を感じることだろう。
ところが、失礼ながら、この木遣りが聴くに堪えないと、いくら「力を出してくれ」と「お願い」されても一向に踏ん張れない。ヘナヘナと力が抜けてしまうのである。 この感じ、何かに似ているな、と思った。「まつりごと」は「政事」に通じる。そう「年金問題」と政治家たちの下手なウソである。多くの国民は、年金制度の改革を「本気」で考えている。このままでは制度が破綻する。将来にわたって皆が安心して「老後」を過ごせる制度にするにはどうすればいいか。”痛み”を覚悟で抜本的な見直しが必要ではないか、と国民は自らの体にメスを入れるつもりで「議論」をしていた。
にもかかわらず、自身の未納は「ありません」と断言」していた小泉首相まで七年近くの未払い期間がついに発覚。「未加入と未納は違う」と独特の強弁をする始末だ。しかもその事実露呈にタイミングを合わせるかのように、北朝鮮への再訪を発表した。
「年金問題」に真剣に取り組もうとする国民は、政治家たちの振る舞いに、力が抜けるだけでなく、大きな憤りを感じている。曳き手である国民は、一致団結して巨木を動かすのではなく、下手をすればそれぞれが「綱」を怒りで切りかねない危うさが漂っている。
祭りにおいて木遣りの唄い手は、単なる唄の上手い個人ではなく「公」の責務を負ったパフォーマーとなる。いわば「公人」である。国の「政事」を司る政治家は、いうまでもないだろう。「公」の場に立つ人たちは、相応の責務を負う。だからこそ、下支えする人々が巨木を動かそうと力を出すのである。
だが、「公」とは名ばかりで、「利益の代表者」たちがテーブルを囲んでいるのが、日本の現状なのかもしれない。テレビ局の友人から、こんなメールが届いた。
「一〇年くらい前のことです。耳鼻科の医師から、自分に合わない補聴器をしている老人が多いと聞きました。それで老人たちは補聴器を遠ざけてしまう。しかし聴こえにくいので、また買い替える。その繰り返し。補聴器をその人が聴こえやすいよう調整すればいいのだが、補聴器を売る側が知らんぷりをしている、、、補聴器の課題を検討する委員会のメンバーに補聴器業界の人が入っていて、この問題が一向に取り上げられない、とその医師は語っていました。もしも状況が変わっていないとしたら、公益について話し合われる『審議会』などの場がどのように機能しているか、きちんと精査しなければなりませんね」
このメールは「中医協(中央社会保険医療協議会)」について各界の人と議論していた過程で送られてきた。また、あるジャーナリストはメディアが公について深く斬り込み得ない実情に関して、次のように指摘した。
「マスコミは正義の味方ではありません。記者は、日々、目の前の『事件』という素材を調理するのに汲々としており、専門的な記者が育ちにくい。取材に時間をかけた記事は、まず、一面のトップにはきません。厚生労働省には政治部、社会部、経済部、科学部の記者が常駐していますが、年金は政治部、社会保障や労働は社会部、先端医療は科学部と縄張りが決まっています。政治部と社会部の記者にとっては、官邸や自民党、警視庁などを担当して『激務』をこなしたあとに骨休み的に厚労省に回るケースが多く、競争心がありません。年金改革のエキスパートといえる記者は極めて少ないのです。仮に一所懸命に取材する記者がいたとしても、取材は審議会に託された議論の『落としどころ』を探り当てることばかりに向き、議論自体の方向がおかしいとか、間違っているという本質論には至らない。残念です」
「公」を取り巻く”閉塞状況”は、日本全体を覆(おお)っている。誰もが「よしっ、綱を曳くぞ」と思わず力が入ってしまうような唄い手の登場を渇望しているのだが……。
どうすれば「新しい公」「市民的公共性」を構築できるのだろう。分野を超えて、今こそ率直に意見を出しあい討論する必要があるのではないか。
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