安濃津県と呼ばれていた三重県
執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】
2月1日で津支局長になり、三重県の住人となった。転勤が決まったとき、中学一年生の三男は「松阪牛がたらふく食べたい」といい、二男は「伊勢エビがいい」と言った。妻はミキモトパールの名前を上げた。小生は伊勢神宮と松阪商人をイメージしていた。自分が赴任するところがどうして三重県と呼ばれるようになったか気になった。
三重県の命名の由来をたどることはそのまま日本史探訪の旅になるに違いない。そう考えながら、津への旅立ちとすることに決めた。旅のスタートは明治維新となった。
明治維新から廃藩置県を通じた新しい行政区画の整備とその後の道府県の統合再編劇は、現在進行中の市町村合併を考える上で多大な示唆を与えてくれる。特に地名の決め方は面白い。
明治政府は廃藩置県に際し、律令時代の「国」を単位として府県を整備し、府県名の付け方として、「県庁を置く地名とすること」と統一する考えだった。だが「国」の概念は江戸時代に相当程度崩れていて、行政区画の整備は一筋縄ではいかなかった。
■4つの国が合体した三重県
三重県は律令制度でいうところの伊勢国と伊賀国、志摩国、それに紀伊国の一部が一緒になった領域を持つ。4つの国が合体したのだから中心というものがない。人口規模で言えば、コンビナートが控える四日市市が一番大きくて、次が鈴鹿市。県庁所在地の津市はようやく3番目に位置する。「津って県庁所在地だったよな」と心細げに語った友だちもいたくらい目立たない都市である。
江戸時代、この4つの国がさらに細分化されていて、幕末の地図では8つ藩と幕府直轄地の伊勢の山田に分かれていた。正確に言えば、松阪などのほか、南部の南北牟婁郡もまた紀州領だったから10以上の領地に分かれていたことになる。日本全国で300以上の藩が存在したのだから仕方がないのかもしれない。
一番大きかったのは津藩(藤堂高猷、27万石)で、藤堂高虎の時代は伊賀上野に城を持っていたが、徳川家康に功を認められて本拠を津に移し伊賀国も併せて統治した。
このほかの7つの藩は北から長島藩(増山正同、2万石)、桑名藩(松平定教、6万石)、菰野藩(土方雄永、1万石)、亀山藩(石川成之、6万石)、神戸藩(本多忠貫、1・5万石)、久居藩(藤堂高邦、5万石)、鳥羽藩(稲垣長敬、3万石)となっている。
■旧徳川領を統治するため生まれた「府県」
徳川時代の統治は複雑で領地も入り組んでいたから細かいところはわからない。例えば三井財閥を生んだ松阪は紀州徳川の領地だったことはこの地に来て初めて知ることとなる。紀州藩の徳川家は今の三重県の領域になんと15万石もの飛び地を持っていたのだ。逆に津藩の藤堂家は大和に飛び地を持っていた。藩は大名家の私有地だったと考えれば分かりやすい。江戸時代の藩を語るのに現在の行政区画だけを考えていてはとんでもないことになる。
廃藩置県が発布されたのは1869年7月1日。実施は翌年の4月1日である。東京など一部は5月1日と遅れた。府県制はこの時、導入されたと学校で習った記憶があったが、実は薩長土を中心とする官軍が江戸に入場した直後、新政府は「政体書」を公布。中央と地方の官制を定め、徳川家の支配する天領750万石のうち70万石を残して召し上げ、新政府領とした。新政府運営にはその日から相応の税収が必要だったのである。全国の藩の体制はそのままだったから、それらの地域は実質的に支配者が徳川家から天皇に変わっただけだった。
ただ新政府としては、新しい支配地に「藩」に代わる新たな名称を早急に考え出す必要があった。新政府の領地の形態が徳川時代のままであるのはいかにもおかしい。版籍奉還は後のことである。とりあえず徳川から召し上げた領地について官制として「府県制」を導入した。「府」はその昔、「国府」と呼んだ経緯があり、「県」は中国jから導入した概念だろう。
旧徳川領で所司代や奉行の支配地だったところを「府」とし、郡代や代官の支配地を「県」とした。コメ生産があるところを「県」とし、そのほか都市部などを「府」としたと考えれば分かりやすい。
だから明治初期、東京や大阪、京都だけが「府」だったのではない。長崎も神戸も「府」と呼ばれた。三重県でいえば伊勢神宮のある伊勢の山田は1868年7月から一年間だけ「度会府」と呼ばれた歴史があるのだ。
■転々とした県名
さて三重県の由来である。現在の三重県の概念ができたのは1876年(明治9年)4月のことである。津に県庁があった三重県と山田に県庁があった度会県が合併してできた。北海道と沖縄を除く現在の45府県体制ができるのはさらに13年後であるからまだまだ明治日本は再編のさなかである。
そもそも1871年7月の廃藩置県では、旧藩がそのまま県になったから現在の三重県には9つの県が生まれたことになる。北部の桑名県、長島県、亀山県、神戸県、菰野県、津県。南部の久居県、度会県、鳥羽県である。
府県の第一次統合は4カ月後の11月に早くもやってきた。
桑名から津までの北部6県は安濃津県(あのつ)として合併され、安濃津郡の津に県庁が置かれた。この合併に伴い津県が奈良に持っていた飛び地を失った。南部は久居県、度会県、鳥羽県を合併した上、和歌山県の飛び地だった松阪や牟婁郡を取り込み、度会県となった。県庁は度会郡の山田(今の伊勢市山田)の地に置いた。
当時、明治政府は県庁の所在地名をもって県名とすることを定めた。だから合併後も安濃津郡の津に県庁を置いたから安濃津県の呼称が残った。度会県も同様である。明治政府はまだ市制どころか区や町村制も導入していないから県庁所在地は津市ではない。ただの津である。
安濃津県もそうだが、廃藩置県直後の日本には現在からみれば不思議な府県名が多く存在する。現在の徳島県が「名東県」と呼ばれるなど廃藩置県の府県名は初めから府県を包括する地名ではなかった。そもそも「国」単位で新しい行政区画をつくろうとしたのに、県名だけは小さな土地を残した概念としたのはおかしなことだった。
余談だが、長野県知事の田中康夫氏が長野県を「信州」と呼ぼうとする意図はけっこう明治政府のやろうとしていたことに近いのかもしれない。もっとも「信州」は略称で本来は「信濃」でなければならないと思うのだが。
また全国どこでも同じだが藩主がそのまま県知事となった。正確には知県事という。語源は県の事を知行するという意味だろう。ちなみに安濃津県の知事は津の殿様の藤堂高猷だった。
ただ津は安濃津県の南端に位置したため、あまりにも県庁が南に偏りすぎると批判が起き、合併4カ月後の1872年3月、県庁は三重郡(今の四日市市)に移された。この時、政府の方針に従い、県名も安濃津県から三重県に変更した。この時、三重が県名として初めて現れるのである。
新たな県庁となった四日市陣屋は翌1873年12月、早くも手狭であるとの理由から再び津の地に戻された。県名を再度、安濃津に戻すことも検討されたが、度会県との合併も浮上していたため、安濃津の地名は復活することはなかった。
以上、長々と三重県の由来について書いた。この一カ月学んだことである。この地にやってきたのを機会に三重県の読者と出合う機会をぜひつくりたいと思っています。メールをいただければ幸いです。
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