新幹線かリニアか-中国の高速鉄道の行方
執筆者:文 彬【早稲田大学・日中ビジネス推進フォーラム】
大地を疾走する高速鉄道の夢を見る指導者達
1978年10月26日、訪日中の鄧小平は古都・京都を訪れるために初めて新幹線に乗った。田園地帯を疾走する快適な車内でいささか興奮気味の鄧小平は、随行の記者団に「新幹線に乗ってみると、前進を急かされている感じがする。我々は今こそ前進しなければならない」と感想を述べた。ちょうど文化大革命が終わり、鄧小平が三度目の政界復帰を果たし対外開放と経済発展をさせようと夢が膨らむ時期だった。この時、彼はおそらく胸中に中国の大地で高速鉄道が走る様子を描いていたであろう。鉄道網は国の大動脈だ。その大動脈の近代化、即ち高速鉄道化は中国の経済復興のシンポルにもなるのである。
それから24年経った2002年の最後の日、鄧小平の肝いりで経済再建の立役者を務めてきた朱鎔基首相(当時)が中国初の本格的な高速鉄道・上海市内と浦東国際空港を結ぶリニアモーターカーの運行式に立ち会った。しかし、工事受注国であるドイツのシュレーダー首相がそばにいるにもかかわらず朱鎔基の表情は始終厳しかった。彼の決断で総事業費92億元(約1200億円)の巨資を投入したこの上海リニアは中国の高速鉄道の試験線と位置付けられ、その成否は重大な結果をもたらすからである。
2010年にも北京と上海を結ぶ京滬(きょうこ・北京と上海の略称)高速鉄道が完成すると計画しているが、時間が差し迫った今になっても、リニア式とレール式のどちらを採用するかさえ決まっていない。リニア派とレール派が激しく対立するなかで、カリスマ性と指導力に定評のある朱鎔基も躊躇せざるを得なくなった。2001年10月、来日した朱鎔基は京滬高速鉄道について「私の任期の2003年までに詳細を決めて、2005年に着工したい」と語ったが、結局約束は果たせず、その決定は次期の温家宝内閣に委ねなければならなくなった。
今尚続くリニア式・レール式論争
京滬高速鉄道にリニア式か、それとも新幹線のようにレール式を採用するかという議論はもともと中国にはなかった。レール式を採用すれば、日本の新幹線の40年にわたる商用経験が生かされ、コストを最小限に押えることが出来る。そして、在来線への乗り換えも可能になるなど実用性が高い。従って、中国鉄道省は最初からレール式を念頭に置いて10年掛けて調査した結果を纏めた建議書を1997年に国家計画委員会に提出し、高速鉄道の早期着工を促した。
北京-上海間は1300キロ、航空機なら2時間の距離だが、現在の鉄道では特急でも12時間かかる。時速300キロの高速鉄道を走らせ、それを一気に4時間半に短縮させる計画である。完成は2010年、総工費は1000億元(約1兆5000万円)と見込まれる。中国では三峡ダムに次ぐ巨大プロジェクトとなる。北京から上海までの地域は中国でももっとも経済活動の活発な場所だ。日本でいえば東京-名古屋-大阪の太平洋ベルト地帯に相当し、いわゆるドル箱路線である。
全国GDPに対するシェアも約40%だと言われている。だが、京滬鉄道の在来線の輸送力はすでに飽和状態になっており、高速鉄道建設の遅延が直接当地域の経済の足を引っ張る格好となっている。高速鉄道建設の遅延により年間損失が200億元(約3000億円)になると経済学者で中国科学院メンバーの李京文が指摘する。京滬高速鉄道の建設を一日も早く進めなければならないことは官民の共通の認識である。誰もが間もなく鉄道省の建議書が批准され、工事もすぐに始まるだろうと思っていた。
しかし、鉄道省の建議書が提出されたすぐ後にレール式に反対する意見が出た。この意見は京滬高速鉄道を遅らせたばかりでなく、未だ収まらぬ「リニアか、レールか」の論争を引き起こすきっかけとなった。
反対意見を申し出たのは中国科学院の有力メンバー、徐冠華、厳陸光、何祚キュウ(广+休)の3氏だった。徐は科学技術省大臣(部長)を兼務し、厳は中国科学院電工研究所所長の肩書きを持つ。そして何も中国でもっとも知られている物理学者の1人である。3人はいわば、中国科学の権威を代表する人物だ。厳が首相の朱鎔基に「京滬高速鉄道はリニアが最適」と手紙で進言したところ、「大いに検討する価値がある」との返事を受けた。
リニア推進派はリニア技術の先鋭化と保守のローコストを強調すると同時に、伝統的なレール式と比べて飛ぶように走るリニアの機能性を絶賛した。中国の高速鉄道に世界的に見ても商用運行された例のないリニアを導入することで、先進国との距離を一気に縮めることも狙っている。テレホンカードで先進国が数年間使用していた磁気式を飛ばし、いきなりID化した時のように。
これが政府をしてリニア式に傾斜させた最大の理由である。経済的にも技術的にも先進国から立ち遅れている中国としては、国民の士気高揚のためにも「世界初」、「世界最速」、「世界最新」という言葉が必要なのである。こうして、中国高速鉄道の試験線である上海リニアの建設がスタートしたのだ。
鎬を削る市場争奪戦
京滬高速鉄道の長さは1300キロ。今後20年の間に建設予定の北京香港線(2500キロ)、ハルビン大連線(940キロ)、徐州宝鶏線(1030キロ)をあわせると、日本新幹線の約3倍の走行距離となる。そして、2050年までに中国全土を約1万キロの高速鉄道網で結ぶ壮大な構想もある。
京滬高速鉄道の入札に勝てばばく大な利益につながる可能性も大きいだけに、海外の関心度も高い。中でも40年近くの歴史をたどってきた新幹線を有する日本と、官民挙げてリニアを推進してきたドイツの熱意は一段と高い。世界同時不況に長年苦しまれてきた日本やドイツにとっても、京滬高速鉄道は是が非でもやらせて欲しいビッグプロジェクトである。
2009年の竣工を目指す三峡ダムは、中国最大の国策プロジェクトだ。数年前、このダムに設置される発電機の国際入札の際、日本の企業連合は欧州勢に完敗した。その最大の原因として、官民一体の欧州勢と違い、日本政府は工事の受注は企業行為として積極的に協力しなかったことが指摘されている。
一度大魚を逃した日本は、今度こそはと中国鉄道省が京滬高速鉄道の可能性調査を始めたとの情報を入手したとほぼ同時に入札への準備を着手した。1994年のことだった。
その最初の動きはJR東日本、日立製作所、川崎重工業、三菱商事など14の企業と団体が設立発起人として作った日中鉄道友好推進協議会である。3年間の準備期間を経て1997年、同協議会が正式に発足したとき、参加したメンバーは鉄建公団やJR各社、商社、メーカーなど60以上に上った。
その狙いは言うまでもなく、まず京滬高速鉄道の受注にあった。協議会は参加企業と団体の協力を得て、中国の鉄道関係技術者を年間100人規模で受入れ、新幹線の先端技術を含む技術の交流も中国側に約束した。そして、協議会は日本の政界にも中国の高層部にも深い人脈を持つ竹下登元総理を初代名誉会長に迎えて政治攻勢を展開する体制を整えた。
深い経験と多彩な人脈、精緻な情報に支えられてきたと言われる竹下の影響力も助勢したのだろうか、京滬高速鉄道の建設を「中日友好の象徴的な事業に」と訴えた村山内閣以来、日本の政府首脳は一貫して新幹線のトップセールスマンの役割を努めてきた。
一方、ドイツは台湾高速鉄道を巡る入札競争時から相手を攻撃することによって自分を優位に見せるネガティブキャンペーンをも辞さず、強烈なPRキャンペーンを一貫して展開してきた。「台湾戦」では、その戦略が効を奏して今にも落札できそうだったが、不運にも台湾大地震とドイツの列車事故が重なり、最終的には日本の企業連合の攻勢に勝てなかった。
しかしその一年後、本願の大陸で雪辱を誓ったドイツは官民挙げての商戦で、ついに中国をして上海市内と浦東国際空港を結ぶ高速鉄道にトランスラピット(ドイツのリニアモーターカー)を導入する契約を結ばせた。そして、ドイツ政府は約54億円もの補助金を無償で建設費に充てた。上海リニアの成功が京滬高速鉄道ないし将来の高速鉄道網の受注に確実に繋がることを、ドイツは堅く信じていたからである。
このようにして日本の努力も一時下火になり、新幹線を大陸で走らせる夢は空しく砕かれたかのように思われていた。
決戦の時が間もなく来る
だが、リニアを支持するのは少数派である。中国鉄道省が推し進めてきたレール式高速鉄道構想は、依然広く支持されているのだ。たとえば、中国科学院及び中国工程院メンバーである沈志雲西南交通大学教授は、世界的に見てもリニアの商用化はまだ行なわれていないとその反対理由を述べている。周宏業鉄道部科学研究院副院長もリニアのコスト、開通後の採算、安全性、他の列車との乗り換えの可能性から分析して、リニアには統一性がなく、京滬高速鉄道のリニア化は抜け出ることの出来ない泥沼になると強く警告している。上海リニアの工事が開始されてから海外にいる多くの中国人科学者も巻き込み、論争はいっそうレール派に有利な方向へと傾いてきた。
すかさず、日本もこの機運に乗じて再び新幹線の売り込みに躍起になった。2001年9月、日中鉄道友好推進協議会や日本鉄道車両輸出組合などの鉄道関係団体が中国鉄道省主催の「チャイナ・レール2001」に出展し、大画面モニターで日本の鉄道風景を流しながら、新幹線のスピード、安全性、大量輸送と経済性を大々的にアピールした。
ライバルのドイツ、フランス、イギリス、カナダなど各国が最新の高速列車と運行システムを披露しているなか、新幹線はひときわ中国の鉄道関係者の注目を浴びた。また、日本の政治家と企業のトップが密に協力し、水面下でレール派の鉄道省高官と頻繁に接触した。こうして人脈をいっそう拡大することによって中央指導部に影響を浸透させようとしているのである。
ここに来て、中国指導部も揺れた。昨年9月の北京では、李鵬全人代委員長(当時)が扇千景国土交通大臣に対し京滬高速鉄道について「個人的にはレール式がよいと思う」と異例の発言をし、指導部の中でも意見の対立があることを匂わせながらも、レール式への支持を明らかにした。
今年1月下旬、日中鉄道友好推進協議会の岡田宏副会長が北京で中国鉄道省と京滬高速鉄道について協議した際、中国側が新幹線方式を採用した場合の日中合弁事業について、新幹線の車両生産と運行の合弁事業化や技術移転の可能性など、約10項目の検討を要請したことが報道された。レール式、それも新幹線方式へ大きく傾いてきたことを示す動きである。岡田は5月までに回答すると約束したが、中国側の最終決定も今年のうちだとの見方が強まってきた。
韓国高速鉄道ではフランスに負け(1993年6月)、台湾高速鉄道では欧州企業連合に大逆転し勝利した(1999年12月)日本だが、果たして第三ラウンドとなる中国ではどのような結末が待っているのだろうか。まもなく、京滬高速鉄道の受注を巡る最終戦が始まろうとしている。
【参考1】「北京―上海高速鉄道」計画概要【参考2】これまでの経緯1978年10月26日 鄧小平副総理が京都を訪問した際に東海新幹線に乗車。1993年6月 韓国高速鉄道でフランスが日本とドイツを破って受注。落札価格は2800億円。日本より200億円も安かった。1995年5月 訪中していた村山首相が李鵬総理に対し日本政府は中国の高速鉄道建設を全面的に支持すると表明。1997年3月 中国鉄道省が国家計画委員会(現在の国家発展計画委員会)に鉄道プロジェクトの建議書を提出し、京滬高速鉄道の構想を固める。1997年9月 JR各社や車両メーカー、商社など60に上る企業・団体で、中国高速鉄道の受注を目指した連合組織「日中鉄道友好推進協議会」を発足。初代名誉会長は竹下元総理。1998年4月16日 「日中鉄道交流に関する協定書」の調印式が人民大会堂で行なわれる。1998年11月 江沢民主席が東北新幹線に乗車。小淵首相は江沢民に対し、日本は官民挙げて協力し、技術面のノウハウ提供や資金援助も惜しまないと約束した。1999年12月28日 台湾が台湾高速鉄道の車体と信号システムに日本の新幹線技術を採用すると発表。契約金額は3300億円。日本企業連合が逆転して仏独の欧州連合との受注競争に勝った。日本企業の連合7社は、それぞれ三菱重工、川崎重工、東芝、三井物産、三菱商事、丸紅、住友商事。完成予定は2005年10月、距離は台北-高雄間340㌔。土地代を含む総工費は1兆6千億円。2000年1月 中国が、上海市内と浦東国際空港間(33㌔)の高速鉄道についてドイツとドイツ製リニア「トランスラピット」の導入に合意。総事業費は約1200億円、ドイツ政府は54億円の補助金を提供。2001年3月8日 第9期全国人民代表大会(全人代)第4回会議の記者会見の席上、国家発展計画委員会の曽培炎主任が北京-上海間の高速鉄道建設について、第10期5ヵ年計画期間中の着工を目指すことを発表。2002年3月 朱鎔基がドイツ側の技術移転に不満を感じ、公の場で「日本の新幹線方式採用の可能性がある」と語った。2002年4月 鉄道省部長(大臣)が訪日し、扇国土大臣と新幹線の建設、資金などの問題について会談。2002年9月 ドイツが技術移転の可能性を示唆。2002年9月24日 李鵬全人代委員長が訪中の扇千景国土交通大臣に対し京滬高速鉄道について「個人的にはレール式がよいと思う」と発言。2002年12月31 日上海リニアの商用運行が開始。朱鎔基首相とドイツのシュレーダー首相が開通式典に参加。