執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

きのう配信した「フォルケホイスコーレを映す色平さんの信州自由学舎」の続きである。

今回の勉強会のテーマは「神野直彦氏『二兎を得る経済学』『人間回復の経済学』読後会」だった。神野氏はこれらの本の中で「スウェーデンモデル導入」を提唱している。田中康夫長野県知事は神野財政学の信奉者の一人でもあるから、いわば破綻に近づく日本の財政をどう考えるかという重たい課題でもある。

スウェーデンモデルというのは、地方政府の重視や脱市場主義を中心に高福祉のためには高負担もやむなしとするところに特徴がある。問題は政府に対する市民の信頼度であろう。スウェーデンのように税金の使い道が透明であれば、市民は相応の負担をするはずだというのが神野氏の主張である。

医療、教育、公共事業……。勉強会では、それぞれのあり方について行きつ戻りつ議論した。ところがどのテーマでも必ず問題となるのが「行政のあり方」であった。政治家とか官僚は何のために存在し、誰のために仕事をしなければならないのか。つまり行政に対する信頼の問題である。神野氏の主張するスウェーデンモデルの根幹にある部分に議論が集中した。

行政が国民や住民のためにあるのは自明の理である。にもかかわらず、「行政のあり方」が問題となるのは現実にはそうなっていないからである。

勉強会には多くの長野県庁の役人も参加していたことは前回書いた。その役人たちがそろって「これまでの長野県政は組織のためにしかなかった」「組織の維持が最大の関心事だった」などと言い出したのには正直驚いた。田中康夫知事の登場でそうした事情が一変したのだという。

田中知事が「革命的」だったのは、組織のためにしか働かない役人には相応のポストが与えられなくなったということのようだ。2年6カ月を経てまだついていけない人も多いのだが、「県民本位、顧客本位」という当たり前のことに必死で取り組んでいるのだそうだ。

筆者が革命的だと思ったのは、複数の役人が「制度とか法令は本来、市民のためにある。そうでないのならば、変えていけばいい」「法令が市民のためにならないと判断したら法律を破ったっていい」というような考えを披瀝したからだ。

外部の勉強会とはいえ、従来の役人根性ではなかなかここまでは言えないはずなのに、堂々と「法令を破れ」と言えることは部内でもそこそこブレーンストーミングが進んでいるからだと思った。改革派知事が多く生まれているとはいえ、県庁内でここまでブレーンストーミングが進んでいる自治体はまだないと思う。

田中知事は自らの改革についてウインドウズではなく「リナックス型」だと表現しているが、日本型にフォーマットされた、官僚や役人の思考は信州でようやく解き放たれつつあるのだと思う。

役人は良かれと思って法令をつくるのだろうが、内容によっては時代遅れになることが少なくない。

極端な話、市民のために真っ先に法令を破るほどの度胸のある役人が出てきたら、われわれはもっともっと行政を信頼し、それこそ進んで税金を納めたくなるはずだ。

そもそも役人は共同体の世話人であるはずだ。本来、「行政」と「市民」が対立するのはおかしい。もっと共同の価値観があるはすだという民主主義の根本に立ち返れば、いま信州で起きていることは取りたてて革命的でもなんでもないのかもしれない。