宇和島・遊子に残したい漁業中心の生活
執筆者:藤田 圭子【早稲田大学政治経済学部1年】
愛媛県の宇和島市に遊子(ゆす)があります。
ここは、今でも残る段々畑と海のコントラストが美しく、漁業の盛んなところです。そして私が大学に進学するまで18年間育った場所でもあります。漁業に頼るここでの生活に最近では陰りが見え初めています。しかし、段々畑の保存活動が盛んに行われるようになった今、保存活動が生活の元気の元になりはしないかと期待しています。段々畑での生産が決して利益を生むものではないことを承知した上ですが・・・
今から書こうとしている漁業を中心とした遊子の生活は、教養ゼミの論文として書いたものをまとめたものです。
現在、地方の生活は厳しいものとなってきており遊子の生活も例に漏れません。そんな中で漁協の再建活動を中心とした村作りを調べることで、今に通じるアドバイスがないか?これが、論文を書こうと思ったキッカケです。
私には「地方、いえ地域で生活することには都会では味わえない素晴らしさがある」という思いがあります。しかし、地域の過疎化は速度を速め、地域文化の崩壊は急速に進んでいるという現状が確実に存在します。そんな中で警鐘を鳴らす者は数少ないのです。利便性を追い求めるが故、人は地域を捨てコミュニティーを捨てていきます。
自分が生まれ育った地域に愛着と誇りを持っている人はいったいどれくらいいるのでしょう。「地域の良さを伝えたい」「でもどう伝えよう」自問自答の日々です。
遊子の漁業には他の地域ではあまり見られない制度・体制が存在します。昭和30年代初期まで栄えたイワシ網漁業にも、イワシ網が倒産し養殖で起死回生を図ったその時にも!
まずは、イワシ網時の体制から説明したいと思います。
一つは網が部落共同経営であったということです。時代によって増減はあるものの、遊子には12個の網が存在していました。部落全戸が一家であり、イワシ網は各家をつなぐ絆であり、部落の政の場でもありました。(一部落に二つの経営体が存在するところもありました。)そして、平等出資・平等就労・平等配当の原則がほぼ確立されていたようです。
もう少し詳しく説明させて頂くと、一つの網組織は、一軒の家から最低一人以上が網を曳くことが義務づけられており、約25人程度の乗組員で構成されていました。そして、それぞれが何らかの役割を分担しながら漁をしていました。世代交代による労働力の更新が地域の中で行われていき、長い年月をかけて労働の質が平等になっていく、「力はあるけれどコツをしらない人」も「コツは知っているが力の衰えた人」もお互いに補いながら仕事をしていく、給料も同じ。網自体が株主の出資によるものだと考えるとわかりやすいかもしれません。
能力給が叫ばれる昨今の社会では考えられませんが、網という仕事と地域色が可能にしていたのだと思われます。この共同経営に移行したのは昭和16年ですが、遊子の網は戦国期から昭和30年代まで約300年にわたり続いていました。共同経営という体制は、長年の経験とコミュニティーがこの組織を作ったのだと思います。
このような独特の組織作りに加え、魚群探知機や無線電話など当時としては高度な漁船設備を持った遊子のイワシ網は「遊子漁団の行くところ不漁なし」とまで言われていました。しかし、過度な設備投資や魚価の低迷によって昭和30年代初期に網と漁協は共に倒産してしまいました。
倒産によって離村した人は数知れずいましたが、海で生きる人々は互いに励ましあい海への復帰を呼びかけていきました。遊子は真珠母貝養殖を手始めとして、組合員(住民)が一体となって、再建の道を歩んでいったのです。
再建にあたり次のような政策を漁協を中心とした組合員たちの手で作り上げていきました。同規格同条件であることを定めた漁場行使。無計画で場当たり的な設備投資の防止を目的とした営漁の計画化。各家庭の口座を漁協の口座にのみ絞り、機械的な天引き貯金や支払いの監視を目的とした組合員勘定制度。組合員が自分たちの意見を漁協の運営に反映出来るようにした自主組織の確立。養殖を行う際に海のことを理解し、仲間で話し合い実践活動を行ってきた漁業後継者の活動。合成洗剤追放運動や海の清掃運動に奔走した漁協婦人部の活動。望ましい姑像・花嫁像を討議し、郷土料理の伝承活動を行ったひまわり会(婦人部OB)の活動。遊子の伝統文化の伝承活動を行う傍ら、櫓こぎの凄腕を持つ友の会(組合員OB)の活動。これらは組合員の中で討議され、議決された「遊子漁業共同組合運営要綱」の中で義務づけられている政策と活動組織です。遊子の人たち自らの手によって作られたので「村の憲法」と表現されることもあります。
1の体制を組合員に納得させるために用いられたのがイワシ網時の体制でした。養殖は網とは違い共同経営をする必要はありません。ですから、平等出資・平等就労・平等配当は組合員の怠惰心を招きかねません。
しかし、「遊子の皆が同じように食べていけるようにはしたい」、その気持ちからか、「スタート時は平等にしようではないか」との声が登場しました。「先人達は協力して生活してきたのだから・・・ただし、スタート時は平等だけれども、育て方によって差が出てくる。
そこまでの責任は取らないよ!」と自分たちの努力の場を残して網時代の体制をうまく利用したのでした。そして、また漁業では困難な営漁の計画化を実行したり、昔から続く村張り組織を応用して、皆が参加できる組織作りなどを行っています。
これらの漁業を中心とした組織作りは遊子の生活復興を実現していきました。漁業とともに遊子の生活を支えていたものに、段々畑での生産があります。漁業と異なり、生産性の薄い段々畑は養殖の発展と共に徐々に姿を消していってしまいました。現在では遊子の水荷浦地区に集中的に残っており、先祖の苦労と努力を今に伝えています。
この集中的に残っている部分を中心に、遊子の人たちを中心とした保存活動が盛んになってきています。昨年から開催している「だんだん祭り」は今年も4月6日に開催予定です。
「だんだん」は方言で「ありがとう」という意味もあり、段畑への感謝の意味も含んでいると理解しています。段畑での生産によって、利潤を生み出すことは大変困難なことですが、先人たちの努力を無駄にしないように整備していくことが必要ではないかと思います。
このように遊子の生活を紹介してきましたが、いかがだったでしょうか。組織体制を考えると社会主義だと思われるかもしれませんが、遊子の住民・組合員たちの間で討議され、実行されてきたことです。一度決めたことでも、自主組織の存在によって変更することは可能なのです。経済利益だけを追い求めるのではなく、家族を養えることを最低条件として遊子の住民、皆が平等に暮らせるような制度・体制作りを行ってきたのです。
論文を作成しようとした当初のキッカケ「今に通じるアドバイス探し」は実現しませんでしたが、地元が歩んだ村作りを知ることが出来、故郷を想い・誇れる気持ちが増しました。遊子だけでなく、全国の各地域に同じようなコミュニティーがあり村作り町作りが為されたのではないかと思います。
地域コミュニティーが失われつつある昨今、見直してみましょう。皆さんの身近なコミュニティーを!
藤田さんにメールはE-mail:yusukko@cf7.so-net.ne.jp
論文は『遊子っ子広場』に掲載しています。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yusukko/gyogyou.htm