執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

25年以上も前のセピア色の岩波新書を週末にひもといていた。中江兆民の『三酔人経綸問答』である。書かれたのは明治18年である。牙を剥いた列強が北東アジアの国々を虎視眈々と狙っていた時代に、どうやって日本を守るかという議論が洋行帰りの紳士君と豪傑君、南海先生との間で戦わされる。

興味深いのは中江兆民が、戦争が起こる原因について南海先生に語らせているくだりである。

両邦の戦端を開くは互いに戦いを好むが為めにして然るに非ずして、正に戦いを畏るるが為めにして然るなり。我れ彼を畏るるが故に急に兵を備ふれば、彼も亦我を畏れて急に兵を備へて、彼此の神経病、日に熾(さかん)に月に烈くして、其間、又新聞紙なる者有り、各国の実形と虚声とを並挙して、区別する所無く、甚きは或は自家神経病の筆を振い、一種異様の色彩を施して、之を世上に伝播する有り。

「戦端を開くのは互いに戦争が好きだからではない」「互いに戦いを怖れるがゆえに、兵力を増強し、日に日にノイローゼになるから」で「そのノイローゼを盛んにあおるのがマスコミだ」と喝破する。

是に於て彼の相畏るる両邦の神経は益々錯乱して、以為(おも)へらく、先んずれば人を制す、寧ろ我より発するに如かず、と。是に於て彼の両邦、戦いを畏るるの念俄(にわか)に其の極に至りて、戦端自然に其間に開くるに至る。是れ古今万国交戦の実情なり。若し、其の一邦神経病無きときは大抵戦いに至ること無く、即ち戦争に至るも、其の邦の戦略必ず防御を主として、余裕有り義名有ることを得て、文明の春秋経に於て、必ず貶議を受ること無きなり。

「先んずれば人を制する」の言葉通りどちらかが戦端をけしかける。「もし片一方がノイローゼでない場合は、戦争までにはならず、たとえなったとしても防衛を主として、ゆとりがあって正義を守ることができる」というのだ。

「日に日にノイローゼ」という状態は、まさに911以降のアメリカの有り様そのものではないだろうか。テロを怖れるあまり、テロを仕掛ける可能性のある国々を先制攻撃しようとし、メディアをけしかけているのだから。

ひとつ違うのは、南海先生が語る戦争は対等な国同士の戦争だったのに対して、ブッシュの場合は、軍事力で圧倒的に優位にあるアメリカが中東の弱小国に怯えているという構図である。

そして合点がいかないのは、圧倒的な軍事力を持つ国の大統領が弱小国を相手に「必ず勝つ」と国民に訴えかけているおかしさである。アメリカとイラクが戦争をしてアメリカが負けるなどと考える人がいるだろうか。

勝つに決まっている相手と戦争をして仮に勝利して、これを「勝利」といえるのだろうか。しかも衆人監修の中で「先制攻撃」という手が果たして打てるのだろうか。これはもはや戦争ではない。どう考えてみても警察力の行使という考え方だ。

もしアメリカが警察力の行使という考え方で、イラクを撃つのだったら、裁判所の令状が不可欠である。令状なしに攻撃するのであれば、その後の公判維持ができるはすはない。この場合、令状とは国連決議である。唯一、令状なしで攻撃できるのは、イラクが先制攻撃に出たときである。世界に冠たる民主国家アメリカがこれくらいの初歩的ミスを犯すのであれば、イラクのことを独裁国家となじる資格はない。