執筆者:平岩 優【メディアケーション】

仙台藩校にはロシア語講座

大槻磐渓一家が帰郷した当時の仙台藩校養賢堂は幕末の日本で屈指の洋学研究機関だった。『言葉の海へ』によれば、養賢堂の財政基礎は学田1万2000石に置き、その敷地は現在の宮城県庁と仙台市役所一帯を占める広大なものだった。

「教授法の改革、蘭学など諸講座の増設、教員登用試験制度の新設、学生への文房具の官給、他藩からの留学生寮の設置、聖廟の建設、印刷所と図書館の付設。また、江戸に住む大槻玄沢の協力を得て、医学館と施薬所を藩校から独立させてもいる。いまの大学の医学部と付属病院にあたるもので、内科外科を持つ総合西洋医学校は当時仙台藩だけのものだった。」さらに、「兵学講座に鋳砲、操銃、造船の各科を置いて西洋式訓練とゲーベル銃を採用、ロシア語講座を新設、工学部にあたる開物方を設け技術の研究指導機関とし、産業の開発をいそがせている。」こうした成果が、松島湾内の造船所で進水した日本で初めての洋式軍艦「開成丸」に結実している。「同時に庶民教育にも力をそそいでいる。養賢堂内に商人や農民の教育機関日講所を設けるほか、養賢堂分校の形で、仙台市内に小学校を試みに開設している。藩の富国強兵には、まず教育の底辺の拡充が、長期計画として立てられなければならぬという考えである。」

この中で目を引くのは、ロシア語講座の開設であるが、やはり、仙台藩の地理的な特徴を表しているだろう。

ペリーの率いる黒船が浦賀にあらわれる60~70年前、玄沢の友人、林子平がすでに『海国兵談』などの著作で対ロシアなどの海防を論じている。しかし、林子平の著作は発禁処分となり、子平は仙台で禁錮中に死ぬ。そして、『言葉の海へ』によれば、大槻玄沢・磐渓にも対ロシア海防を扱った『環海異聞』、『献芹微衷』の著作があり、文彦の最初の著作も『北海道風土記』であったという。

すでに、「玄沢のなかに、藩とか幕府とかを越える、日本というものの芽が萌えはじめていた。それが子の磐渓や、孫の文彦へとつづく、大槻家の学の根になっていく。」

さらに、磐渓は老中阿部政弘にロシアとの国境を定めて北辺を安定させ、アヘン戦争のイギリスを排すべきとの意見書を提出した。

ところで、対ロ外交を重視していた政治家といえば、後藤新平である。後藤はアメリカが強大になることを予測し、これに対抗するために日中ロが提携しなければならないとする新旧大陸対峙論を提唱していた。対ロ関係では、自らロシアを訪問して満鉄と東清鉄道との間の連絡運輸協定などを実現。「ロシアという強大な隣国との友好関係なしに日本の発展はありえないというのが後藤の基本的な立場であった。」(北岡伸一著『後藤新平』)また、伊藤博文に日ロ提携を説き、ロシア訪問を要請した。しかし、伊藤は1909年、ロシア・欧州訪問の途、ハルビンで安重根に暗殺される。

後藤は晩年の1927年にも、ソ連を訪問し、スターリンと会談している。こうした後藤新平のロシアへの関心は、当時の世界状況をにらんでの外交政策の一環であることはもとより、大槻一族がロシアの動向を注視していたように、あるいは北日本に生まれて、ロシアの存在を身近に感じていたためではないだろうか。

後藤は1857年、留守家中の武士の家に生まれる。高野長英は後藤本家の出で、新平の祖父の又従兄弟にあたる。

やがて仙台藩は奥羽列藩同盟の一員として戊辰戦争に敗北。留守家の家臣は士族として北海道に移住するか、郷里で帰農するかの選択を迫られ、後藤家は帰農する。新平は朝敵の子と蔑まれながら、高野長英を範として国家のあり方や西洋の文明に関心を抱いていくのである。

留守氏はもともと、奥州藤原氏の滅亡後、鎌倉幕府のもとで陸奥国の留守職に任ぜられ、留守を名のるようになった名門で、かっては禄高も18万石あった。そのため、禄高に比べ、家臣が多く貧しかった。そうした家柄であったので水沢人は気位が高く、人材を生み出しやすい条件にあったといわれている。

また、水沢は鎖国後に、日本のキリスト教の活動の中心地のひとつでもあったようだ。水沢市のホームページをみると、水沢の歴史のなかで大きな位置を占めるキリシタン領主後藤寿庵という人がいる。後藤は外国事情に通じているということで、メキシコを経てローマに派遣された支倉常長に海外の情報を伝えたことが縁で、伊達政宗に召し抱えられ、水沢に近い福原(現在、水沢市)に領地を与えられる。この地は荒れ地であったが、寿庵は外国の神父から伝えられた方法で、胆沢川から水を引く堰の工事に着手し、現在では穀倉地帯となっている。しかし、当初はキリシタンである寿庵を擁護していた正宗も幕府のキリシタン禁止令には抗しきれず、寿庵は姿を消すことになり、その足取りはいまだにわかっていないそうだ。寿庵なきあと、この界隈には隠れキリシタンとなったものが多く存在したといわれれる。中央からみれば北の辺境の地であったろう水沢という地域には、世界に開かれたDNAが組み込まれていたようだ。

維新後、24歳になった大槻文彦は再び、東京に向かう。やがて母校である開成所(大学南校に改称)に入学する。この旧幕時代の機関・人材が文部省の母体となる。文彦は「西洋文法と日本文法の比較研究をつづけ」明治5年に文部省に出仕する。そして仙台・養賢堂構内に宮城師範学校を開設するために仙台に2年間赴任する。そして、帰京後、17年間を費やして『言海』を編纂する。辞書が刊行されてから、文彦は本籍を父祖の土地に移し、岩手県に転籍して、中学校の校長などを務める。後に東京に戻つてからも、仙台領出身者への育英事業にも精をだすし、仙台にかかわる著述や高野長英など洋学に関する著述も続けていった。

高田宏氏は「父と子の、さらにその父祖の血の、切りようのないつながりのなかで、『言海』は生まれた。大槻一族というパターナリズム、奥羽というリジョーナリズムと、日本というナショナリズムが、洋学という西欧合理主義に補強されながら、ひとつになっていった。」と述べている。

地方経済が疲弊し、古くからの商店街が無惨な姿をさらしているのを見る機会が多い。地方に元気がないといわれる。かたや今、地方分権が叫ばれ、自主独立の気運も醸成されているように思う。我々はもう一度地域に目を向け、その地域の歴史や産業、文化を検証し、そこから生業を考えていかなければならない。大量生産・大量消費型の資本主義は終わりをつげ、東京に本社を置くメーカーの工場を誘致し、生き延びる時代は遠くなりつつあるのではないか。

そう書いているときにうれしいニュースが飛び込んできた。かって、北東アジアの地域交流や地方分権の実現について、語り合った元新潟日報記者の篠田昭さんが無党派で新潟市長選に出馬し、なんと当選した!

篠田さんの選挙事務所のホームページを見ると、

「『ないものねだり』は20世紀でやめにして地域の『あるもの探し』に取り組み、『にいがた地元学』を始めませんか。自然、歴史、食、文化、そして人……、地域の宝物を探して磨きをかけていけば、地域の活力も生まれ、誇りも芽生えます。」

参考文献

高田宏著『言葉の海へ』(新潮文庫・絶版)、鶴見俊輔著『高野長英』(朝日選書)、北岡伸一著『後藤新平』、『蘭学事始』(岩波文庫)。

水沢市ホームページ http://www.city.mizusawa.iwate.jp/

篠田昭選挙事務所ホームページ http://www.shinoda-a.jp/news/aozoranet07.html

平岩さんにメールは yuh@lares.dti.ne.jp