2002年07月10日(水)萬晩報コナクリ通信員 斉藤清

 ◆蜂蜜の誘惑
 蜂蜜と金。その両者にはまったくつながりはないのでしょうが、実は昨日、奥地のキャンプから、車のオイルが入っていたプラスチック容器で、蜂蜜が4リットル届きました。これは私の大好物なのです。金産地の金イオンを含んだ水を吸い上げて咲いた野の花々のエキスの、あるいは金イオンを含んでいるのかもしれない黒砂糖風味の野趣そのものの蜂蜜をなめながら、それで、時には当地での金の仕事の情況を書いてみるのもいいのかなと愚考し、さらに外は週末の雨でしっとりと落ち着いていて、過ぎた時間をたどってみるのにはちょうどいい背景設定ではあるし、そのうえ、小紙『金鉱山からのたより』は1998年7月の創刊以来丸4年、怠惰な発信周期のままにいよいよ5年目に流れ込むという、誇ることもできない区切りの月にあたることも頭をよぎり、そしてその瞬間、蜂蜜に混じっている小型の蜂の死骸と巣の破片がずいぶんと多いことに気がついて、これはガーゼを使って漉したほうがいい、とあらたな仕事(さほどの手間でもないのですが)が増えてしまったことをおおげさに嘆いてため息をつき――時の経過に逆らうことのできない身をしみじみとみつめているつもりになっている筆者なのですが。

 ◆奥の細道
 現在のキャンプ地――金の採掘現場までは首都コナクリから約1,000キロ。
1990年に初めてこの地に足を踏み入れたのですが、当時の道路事情はホントにひどいもので、地方の幹線道路の一部の区間では、日中でも車のライトをつけて、舞いあがる砂塵の中での自分の存在を知らせ、対向車らしき影を感じたら、はげしくクラクションを鳴らす必要もありました。細かい砂塵が、ふりつもったばかりの雪のように道を覆っていて、足を踏み出せば、くるぶしくらいまではもぐってしまうほどの深さでした。

 そして常識的には、自分の車の前にはいつも走れる道があり、しかも障害物はないであろうという想定のままに走行を続けるわけですけれど、ある地点では、道路に横たわる細い川にかかる橋の幅が道幅の半分もなく(車1台分の幅だけで)、――おそらくは素直に直進して橋を踏み外し、けっこう深い流れに身を沈めているスクラップ車を何度か目撃。そのように、予備知識なしでの夜間走行だったら転落して当然、といえる場所もありました。――そんな道路事情も近年はすっかり改善されて、幹線道路のかなりの部分は、日本の国道よりもずっと走りやすくなっています。

 この過酷なコースを丸々二日間走りつづけると、窓を締めきった車の車内にも、ラテライトの紅い埃が厚くつもっていて、乗っている人間の顔にも埃がへばりつき、仮面の中から眼球だけが外を見ているような状態になります。鼻と耳の穴にも紅い埃はふりつもるのですが、口の中だけは、唾液が埃を洗い流してしまうものなのか、さほどの異変は感じなかったようです。そして無事に目的地に着いて車を降りる時は、第一歩は必ずよろけてしまって、平衡神経がまともな状態に回復するまでには大分の時間が必要でした。

 ◆金の採掘に向けて
 ともあれ、カナダの会社が調査を始めていた鉱区の一角に、初めて足を踏み入れたのが1990年。その後、鉱区の隅のほうの面積4平方キロの漂砂鉱床だけを重点的に精査し、まずはその部分を採掘する目的で、その会社が当時保有していた総面積1,500平方キロの鉱区をすべて引き継ぎ。

 1993年の暮れから、現地への採掘機材の搬入と、キャンプの宿舎、食堂、事務所、金精製作業棟などの建設を開始。日本ばかりではなく、他の国からも送り込んだ重機、資材―大工用の釘に至るまで―を、現地調達の車輛を使って、しかも長距離の悪路を移動させる作業は楽なものではありませんでした。――現在の道路状況だとずいぶん楽なのですが。

 カナダのバンクーバーで特注製作した金選別装置は、輸送船の都合があって、雪のロッーキー山脈を越えてニューヨークまで牽引陸送し、コナクリ向けの船に載せたこともありました。また、総重量70トンほどのドラッグライン(土砂をすくいあげて移動させる重機)は、スウェーデンで手頃なものが見つかり、ベルギーのアントワープ港で積み替えてアフリカ航路へ。

 特に、総重量70トンほどのドラッグラインのギニア国内の移動に際しては、通過する予定のすべての橋の状態と幅を前もってチェック――これは自分自身の手でやりましたけれど。最終的に、中部ギニアのリンサンという町を流れる川にかかる50メートルほどの橋が、強度はともかくとしても、幅が絶対的に狭くて通過できないことが判明。そこで村人の指導を得て、1キロほど下流の、両岸が比較的平坦な場所を選び、ここに臨時のアクセス道路を開いて、乾季の水位が下がった時期を見計らい、川底に大きな岩を敷きつめて横断路とし、この区間だけは重機を自走させたこともありました。

 ◆採掘作業の開始
 そのようにして採掘体勢を整え、1994年後半から現地での金採掘を開始。3交代24時間稼動態勢でのスタートでした。この時期に掘り出した金の粒を、『金鉱山からのたより』の初期の読者の方々に、記念品としてお送りさせていただいたこともありました。

 1994年から1997年までは、金価格は1オンス(31.1g)380$を超える国際価格が続いたのですけれど、このあと急激に下落して、時に250$ということもあり、それから長期にわたって低落したまの期間が継続することになります。金価格350$程度を想定しての計画を立てていた私めにしてみれば、それは絶命の窮地ということを意味し、その後現在まで、どうしようもない状況にあるということには変わりがないと、妙な自信を添えて断言し、逆境を強調して笑いに紛らす、ということも現実にはあるのですが。

 国際的な規模の産金会社から見れば、当社の現場はかなりちゃちな操業風景ではあるのですが、それでも、ごく一般の、金鉱山をご覧になったことのない普通の日本人の目から眺めれば、それなりの規模に思えることは確かで、ことに、移動させている土砂の量は、ちょっとした土木工事のイメージをはるかに超えているものではあります。

 これまでの採掘作業は、あくまで漂砂鉱床を対象としていて、大昔――人間がまだ登場していなかった頃でしょうか、この地が形成されたある時期に流出して堆積した金を含む層を(この地では2-3mの厚みなのですが)、地下のある深さから掘り出して水でただ洗うだけの、単純なそれでもやさしくはない微妙な技術も要する、露天の土砂クリーニング業、といった類いの仕事になっています。

 ◆黄金にまつわる伝承
 流出した金を含む堆積層があるということは、さほど遠くはない場所にその源があるはず、というのは当然の理屈。ついでながらその金鉱床を確認してみたい、という遊び心もあり、私めは民俗学者をまねて、まずは何人もの古老と話しこんでみました。

 ――昔はたくさん金が出たけれど、それは村人のためにならないからずっと立ち入りを禁止している、とか、精霊がその山を守っているから入ってはいけないことになっている、とか、あるいは金はたくさん出るけれど、水が多いから村人の採掘技術では作業ができずに現在は放置されている、などの貴重な情報はいろいろあって、時間を見つけてはそれぞれの山(丘)を訪ねてみました。山によっては、ニワトリを生贄として持参し、土地の信仰(おそらくはイスラム教が入り込む以前の)にしたがって、山の木立に向かってひっそりと宗教儀式を行ったこともありました。その中には、いつの時代に掘られたものなのか、古老の知識にはない「採掘遺跡」もいくつか存在しています。

 これらの場所は、村人にとってはタブーであったとしても、異邦人としての私めにはタブーの効果は及ばない、という古老の解釈でしたし、むしろそこを案内することに積極的でした。その結果、けっして小さくはない金鉱床の存在が、現代の技術を使って、その一部だけではあるもののはっきりと確認できた今は、立ち入りを許してくれた山の精霊や村の古老らに、おおいに感謝しているところです。

 現在のキャンプ地あたりは、古くはブレ地方と呼ばれ(駿河、紀州のような昔の土地の呼び方)、古代マリ王国の支配者マンサ・ムサ王が首都ニアニを置いていた場所の近くです。そのニアニは現在のギニア領内で、当社鉱区に隣接。彼がメッカへ巡礼に行った1324-25年には、持参した黄金(その量は数トンとも、十数トンともいわれるのですが)を旅の途中でばらまき、そのせいで金の価値が下がってしまったと、モノの本には書かれています。

 この当時――つい最近までも、この地方には奴隷の制度があって、ある家柄の者は生まれたその時から自動的に特定の家系に従属する奴隷として働くことになっていました。そのために、日本の佐渡金山にも匹敵するような規模の金の採掘が行われ(現在のような村人の個人レベルでの手作業では絶対に無理な規模の)、その巨大な空洞、採掘跡はまだいくつも残っています。その作業の跡を現在の知識レベルでチェックしてみても、当時の彼らがとても優れた知識と技術を持っていたことがわかります。――実に的確に掘っています。

 ちなみにこの地では、経済効率を考えなければ、いたるところで金が採取できます。例えば、小高い丘の上に建てられた我々の宿舎の前庭の、天然の小砂
利をバケツに一杯ほどすくって洗ってみれば、必ずいくつかの金の粒(粒の大小は問わないとして)を目にすることができます。機械のテストで、丘の麓のトウモロコシ畑の砂を洗っても、充分な量の金が採集できました。

 1828年には、この黄金郷をめざすヨーロッパの探検家ルネ・カイエが、苦難の末にこの地に到達しています。彼は、おそらくは現在の村人の作業風景とほとんど変わることのない現場に立会い、事細かに採掘の状況を記録しました(日本語訳の本もあり)。命をかけて、地を這うようにしてこの地にたどりついたルネ・カイエと、埃まみれにはなっても、さほどの危険もなしに、同じ場所に車で乗りつけることができる今の時代とでは、文字通り、隔世の感があります。

 そして、これらの耳と足で確認した情報を、資源探査衛星の写真と突きあわせてみると、その間には、みごとに一定の法則が存在していることがわかってきました。

 ◆科学的なチェック
 そうとなれば、もう少し組織立てて調査する必要があり、北米の大手金山会社と提携して、鉱区全体の洗い直し調査を始めたのが1997年からだったでしょうか。体系的に膨大な点数のサンプルを採取して金の含有量を微量分析し、その結果の数値を地図上に落とし、金の濃度分布図を描いてみると、これもぴたりと村人の昔の採掘跡、あるいは村人の手による現在の採掘現場と重なったわけです。その後、集中的に地下100メートル程度までのボーリング調査などを実施し、商業的にも放置できない規模の金鉱床が確認されました。

 その評価をもとにして、ギニア国の鉱業法の制約もあり、現在は鉱区面積を200平方キロに絞りこんでいます。そして実際には、金価格の低迷の影響をまともに受けて、悪戦苦闘、四苦八苦、断末魔の苦しみを引きずりながら、国際的な規模の金鉱区に仕上げるための作業を断続的に続けています。とりあえずは、現在までに確認している、100トン程度の金埋蔵量を見込んでの精査作業が続くことになります。

 むろんこの鉱区は我々が発見したわけではなく、その第一番の貢献者は古代マリ王国のマンサ・ムサ王であり、探検家ルネ・カイエであり、そしてこの地方の先祖とそれを伝えてくれた現在の村人たちでした。

 そして――このあたりになってくると、遊び心の範疇をかなり超えている状況でもあり、私自身はこの10年間、苦しみつつ(そして多くの人に迷惑をかけつつ)も、妙な縁から始めた金採掘を楽しみ、あるいは国際的に通用する規模の金鉱区の確認に、山師として、舞台監督として立会い、たっぷりと遊ばせてもらったことを手みやげに、そろそろ浦島太郎になるのもいいねと、キャンプ地から届いた黒砂糖風味の蜂蜜に、かすかなほろ苦さをも感じて、ふりしきる雨をみつめているのです。