執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

少年のころ、切手収集が趣味だった。前島密が日本の郵便の生みの親だったことは学校で習う前から知っていた。西洋の仕組みを多く取り入れた明治政府の中で前島密が特別の存在だったのは、列島あまねく津々浦々まで手紙を配達する仕組みをつくったのだから大変な仕事だったのだろうという思いが子ども心にもあったからだった。

司馬遼太郎の「この国のかたち」に郵便の黎明期の話が出ていることを思い出して最近読み直した。何のことはない。庄屋をなだめすかして郵便局になってもらったのが巨大組織の始まりだったのである。明治政府は、維新後わずか4年で、手品のようにあざやかに制度を展開した。手品のたねは、全国の村々の名主(庄屋)のしかるべき者に特定郵便局(当時は、郵便取扱所)をやらせたことによる。むろん、官設の郵便取扱所(のちの一等・二等郵便局)は、東京・大阪を手はじめとしてつくったが、面としての機能は、津々浦々の「名主郵便局」が担った。

建物は、名主(庄屋)屋敷の一隅をつかうだけで十分だった。「駅逓頭」という職にあった前島密は、旧名主(庄屋)に郵便をあつかう気にならせる上で、かれらの名誉心を十分に刺激した。まず、郵便事務が公務であることを説いた。ついで、局長は官吏に準ずるという礼遇をした。

さらには、身分は旧幕府のご家人なみの判任官とした(のち、年功の大きな者の場合、高等官にのぼる例もあった)。また、旧幕府時代の名主(庄屋)がそうであったように、わずかながら手当がつけられたことも、かれらを満足させた。むかしの士分の禄が米だったということを重んじ、金銭で給与せず、わざわざ玄米一日五合にするほどの細心な配慮をした。

かれらはいよいよ満足した。当然ながらこれによって、郵便事業に参加した旧名主(庄屋)層は、新政府からもそれにふさわしい礼遇をうけたとして、犠牲を覚悟して参加した。名主(庄屋)というのは、江戸期でもっとも公共精神のつよかった層なのである。江戸時代に飛脚という世界にもまれな「郵便制度」があった。藩という半ば独立王国の連合体だった日本という国の中で「国境」を越えて配達された。飛脚制度が郵便事業という近代制度に代わった時、今でいうボランティア的意識で庄屋が官吏に登用されたのだった。明治時代の日本の郵便屋さんのすごさについては2001年12月10日号「チェチェン人が絶賛した明治のポストマン」で書いた。郵便事業がまさに「公共の福祉」だった時代である。

この登用された庄屋は三等郵便局と呼ばれたが、戦後になって「特定郵便局」と名称が代わる。郵便法には「公共の福祉」という文言は残るが、やがて地方の自民党の集票マシンや利権組織に変貌するのだからどうも悩ましい。

郵政事業の民間参入について、「ヤマト宅急便」の生みの親である小倉昌男さんが月刊現代7月号に「本気で郵便事業の民間参入を実現させるならことは単純明快です。郵便法5条を撤廃すればよいのです。これだけで明日からでも民間参入は実現します」と書いている。

目からうろことはこのことだ。日本の悪いくせは、リストラだとか規制緩和を行う時に現在ある制度を廃止せずその上に新たな決まりをつくることである。古い温泉宿のように継ぎ足しで大きくなった建物は新館といえども旧館の延長でしかない。古い土台の上に家屋を建てても古い家の枠組をひきずるだけ。真新しい家を建てるには土台から壊すことが肝要なのだ。【郵便法】

第2条 郵便は、国の行う事業

第5条 何人も、郵便の業務を業とし、又、国の行う郵便の業務に従事する場合を除いて、郵便の業務に従事してはならない。ただし、総務大臣が、法律の定めるところに従い、契約により総務省のため郵便の業務の一部を行わせることを妨げない。

2 何人も、他人の信書の送達を業としてはならない。2以上の人又は法人に雇用され、これらの人又は法人の信書の送達を継続して行う者は、他人の信書の送達を業とする者とみなす。

3 運送営業者、その代表者又はその代理人その他の従業者は、その運送方法により他人のために信書の送達をしてはならない。但し、貨物に添附する無封の添状又は送状は、この限りでない。

4 何人も、第2項の規定に違反して信書の送達を業とする者に信書の送達を委託し、又は前項に掲げる者に信書の送達を委託してはならない