執筆者:色平 哲郎【長野県南相木村診療所長】

フランス映画「モンパルナスの灯」に衝撃を受けたのは、高校生の時だった。肺結核にアルコールと麻薬中毒、そして極貧が重なって36歳の短い生涯を終えた失意の天才画家アメデオ・モジリアニ。彼の半生を、同じ36歳で急死した俳優、ジェラール・フィリップが繊細に演じて素晴しかった。

モジリアニの、同時代の作家との交流を深めながらも、孤立を恐れない、その画風と生き様には、超然としたものを感じた。モジリアニは生前、同時代人から必ずしも評価された訳ではなかった。映画の中に登場する画商は、彼の作品を黙殺する。しかし、その画商こそ実は天才を最も良く理解する同時代人であった。

画家は無名のうちに死ぬ。画商は彼の死を見届け、作品がそれ以上世に出ないことを確かめた後で、悲嘆に暮れる家族から全作品を買い上げ、独占する……。

歴史を超えて生きるアート、すなわちクラシック(古典)は、詩も文学も絵画、音楽そして映画も、クリティーク(批評、批評家)の存在によって支えられ励まされてきた。クリティークとは、たとえ一時は手厳しいものであっても、アートが時空を超えるのに不可欠なものだ。すべてアートには、優れたクリティークが伴うべきだろう。

それは日常の報道を支える表現活動においても同様なはずだ。現代のマスメディア、特にテレビ放送にはクリティークがほとんど伴わず、リテラシー(批判的に読み解く)意識もないままに、垂れ流しの報道がなされているように感じる。

情報通信技術が発達したことによって、私たちが見失いがちなものがあると感じる。それは実体験というか、自ら経験することで心や体に刻みつけられる外界との接触感、すなわち「リアルな記憶」だ。メディアの無批判な垂れ流しによって、虚像の体験が増えれば、その分、自らの存在は希薄になろう。

リアルな自己が希薄になると、他者の存在への気配りの心もまた希薄になるのではないだろうか。一時の放映に過ぎず、決して時代を超えるものになりはしない、そんな代物でも繰り返し目や耳に入ればどうなるのだろう。リアルな感性は磨耗し、他方で、編集のやり方次第では、事物の一面に過ぎないものを真実として信じ込んでしまう危険があるのではないか。

メディアとはあくまで媒体であり、道具でしかない。ところが、そんなメディアを通じて一方的に送られてくる「情報」を消費し続け、宣伝・広告にさらされるうちに、実態の怪しい「情報」なるものに繰られて、手作りのアートとして生きるべき自らの人生まで変容してしまってはいないか。

山の村の私の診療所で合宿研修に取り組む医学生や看護学生たちには、メディア、テクノロジー、マネーの3者についてこそ、リテラシー、つまり自覚的に読み解く勉強が必要だ、と説くようにしている。

医学もまたヒポクラテス以来の長い歴史を持つアートの一つに違いないのだが、過去においても現在も、日ごろ厳しいクリティークにさらされている分野とは言い難いからだ。

誰とともに生き、誰とともに歩むのか――。

そして、私がこの場を立ち去った後、どのようになっていくのか――。

この両者について、自らに対してもクリティークであり続けることが、実体験を磨耗させるメディアが存在感を増す現代にあって重要だと思う。

色平さんにメールは DZR06160@nifty.ne.jp