執筆者:美濃口 坦【ドイツ在住ジャーナリスト】

欧米には、地球上で起こる種々の紛争を調べ、その原因や予防・対策について研究 している専門家がいる。このような学問は「紛争学」とか「平和研究」とか呼ばれる 分野で、彼らの研究成果や勧告はすべて外交政策に生かされないにしても、紛争につ いて考えるのに役立つので、政治家やジャーナリストも耳を傾ける。
「これは戦争でない」

米国の「同時多発テロ」事件の直後、ドイツにある紛争・平和研究所が合同で、 「これは戦争でない」という声明を出した。

この声明のなかで、彼らは「テロ襲撃の組織者、陰で操る人々の責任を問い、裁判し なければいけない」とし、治安上のテロ対策など短期的政策の必要性を強調するだけ でなく、地球上の富の偏在、未解決の国際紛争など、テロ発生の原因となる長期的な 問題にも眼を閉じてはいけないと訴える。そして、

《これ(=テロを自国に対する戦争と表現すること)は、自分では望まないのにテロ リストと同じ言語を話すことになり、彼らの仕掛けた罠に陥ることになる》

と述べ、また世界中の多くの人々が抱く不公平感を軽減するためにも、国際社会の法 的整備の必要性を強調した。

確かに、「これは戦争だ」といって米国が報復したら、今回のテロ襲撃組織者やそ のお仲間の思う壷になることである。彼らは、米・英武力行使開始直後に放映された オサマ・ビンラーディンのテレビ発言からもわかるように、何とか「イスラム対西欧 の衝突」のお話に持って行き、この話の筋書き通りに現実を理解し、戦争をしてくれ る参加者を募っているのである。本当にこうなれば、千三百万人の回教徒を抱える西 ヨーロッパ諸国だけでなく国際社会全体に困ったことになる。

テロ事件を無思慮にも「戦争」と呼び、そう理解することは、事態が彼らの望む方 向に進行することに協力することである。というのは、紛争とは、現実のとらえ方の 食い違いから発生したり、拡大したりするからである。上記の声明者が「テロリスト と同じ言語を話すことになり、彼らの仕掛けた罠に陥る」ことに警告したのは、まさ にこの点にある。

●「国際テロ撲滅運動連合」の結成

幸い、事件直後「パール・ハーバー」、「十字軍遠征」を口走っていた米国大統領 も少し落ち着く。米外交も精力的に「国際テロ撲滅運動連合」のようなものを結成す る。こんなりっぱな趣旨に、「麻薬撲滅」に反対できないのと同じで、どこの国も賛 成する。

話がこの方向に向いていることもあって、現在アラブ諸国も含めて、多数の国が 「同床異夢」で、また条件つきであるかもしれないが、アフガニスタンでの米・英の 武力行使に反対していない。

この事情は、国際社会がテロを「戦争」でなく違法行為で犯罪と見なしていること でもある。またこれは、人々が漠然とした刑法的なルールを国際社会に適用して事件 を理解しようとしていることを意味する。この理屈では、事件の重要容疑者をかくま い、国際テロの準備・企画の謀議の場所を提供するアフガニスタンに対する武力使用 は、犯罪対策の一つ、一種の警察権の行使になる。

このように刑法的ルールを事件に適用して考えて、ドイツ政府も国民の大多数は米 ・英の武力行使を支持しているように思われる。でもその賛成の立場は微妙である。 まず多くの人が、米国の軍事行動の効果に疑問を抱いている。ある人の表現を借りれ ば、米国のしていることは「台所の中で飛びまわるハエを、ハエたたきでなくピスト ルをぶっ放しながら追いかけ回している」ことに近い。

このように辛らつに表現する人も含めて、多数が賛成するのは、重要容疑者をこの ままほったらかしにすることが良いと考えないからである。またタリバンにかくまわ れた重要容疑者がテレビに出て来て「再犯の可能性」を示唆していることも、この確 信を強める。

日本でも、似た状況で「こんなことを、野放しにしてよいのか」という声が出ると 思う。刑法的ルールの運用には色々な機能があり、その一つは、社会に法的秩序が存 在する印象を成員に抱いてもらうことである。そのためには牙を見せて法的秩序維持 の強い意志表示をする必要がある。多くの人々が現段階でそう考えていることにな る。

一番良いのは、爆撃で「国際テロ・インフラ」の軍事施設が破壊され、派遣された 特殊地上部隊が容疑者を捕まえることであるが、賛成者もその成功を疑う。でも彼ら は現状では不可能といい切れないと自分に言い聞かせているようだ。

今後、テロと関係ない無辜の市民が爆撃で多数死に、冬になり餓死・凍死する難民 が増えるなど現在の武力行使がもたらす害があまり大きくなれば、現時点で賛成して いた人々も反対するかもしれない。これこそ、台所でハエ一匹のためにピストルを打 ちまくって食器も棚も全部破壊してしまうことになるからである。

前回のユーゴ爆撃と異なり、「平和デモ」の参加者の数が少し増えたと報道され た。これは、多くの人々が日常レベルで身の危険を感じているからである。確かに ユーゴ空爆時には、ドイツは武力行使に参加していたが、誰一人としてユーゴが仕返 しに爆弾を落とすと考えなかった。

状況次第で「平和デモ」参加者の数は今後増えると想像される。いずれにしろ「国 際テロ撲滅」の犯罪対策の適・不適を天秤にのせて比較しているので、「米の報復戦 争」という側面ばかりを協調する日本の反応とは、やはり大きな相異があるのではな いのだろうか。

●米国の意味論的分裂症

それでは、この相異はどこから来るのだろうか。まず、私が問題にしたい点は、米 国が国際社会でしめす武力行使のパターンで、それも「戦争」というコトバの使い方 である。

「戦争」というコトバには厄介なところがある。というのは、刑法的ルールを国際 社会に適用し、「テロ」を刑事事件、違法行為と見なすと同時に、自国に対する「戦 争」と受けとめ、「戦争」するのは論理的におかしい。逆説的ないい方をすれば、戦 争は違法化された途端、「戦争」でなくなるのである。

話しの途中で相手が突然鉄砲をぶっ放す。それに対して、私達が阻止しようと暴力 を行使する。この暴力行使は、警官が来るまでの緊急時に、私達が警察権の行使を代 行していることになる。同じように、「戦争」を国際社会でのルール違反と見なし、 それを阻止するために武力を行使することは「戦争」ではなく、国際社会の委託を受 けて警察権を代行的に行使していることである。こうして、私達は誤解を招く「戦 争」というコトバなしで済ませることができる。国連憲章から普通名詞としての「戦 争」が消えてしまったのもこのためである。

自他ともに認める「世界の警察官」が、違法な武力行使も、また自分の「警察権の 代行的行使」も「戦争」と呼び、そう見なすことはヘンなことである。ケンカは違法 (=「悪いこと」)と叫びながら、警官の役割をしているうちに、自分でもケンカを しているのか、警官の職務を果たしているのかが区別できない人を、私達は連想しな いだろうか。(今回の米の武力行使もこのようだと私には思われる。)

この意味論的分裂症傾向は、米国が「戦争」というコトバを二つの意味、両義的に 用いることから生じる。国際社会の名前で「戦争」を違法と見なし、それに対して武 力行使する。つまり「警察権の代行的行使」で、これが第一の意味である。同時に米 国は戦争違法化以前の「戦争」に、第二の意味にもどり、その結果自分の「警察権行 使」の代行性を意識しないですます。これは二つの異なる事実を一つのコトバで間に 合わせることで、こうして、世界中の人が感じ、知っているように、米国が自分勝手 に、何が違法であるかを決めることに通じる。

米国のこの意味論的分裂症は、哲学的素養のあるヨーロッパ人には苛立たしいこと で、すでに第二次世界大戦勃発前の1938年にドイツ人法学者カール・シュミット が書評のなかで分析・批判している。

確かに、国連創設や、第二次世界大戦後のニュールンベルク並びに東京国際軍事法 廷開設など、米国は20世紀の「戦争の違法化」、国際刑法の発展に偉大な貢献をし た。明治の日本人が見た国際社会は「欧州列強」と呼ばれるヨーロッパ人名士のクラ ブのようなものであった。それが、曲がりなりにも現在の国際社会に変貌したのも、 米国の貢献なしには考えられない。とはいっても、米国が二つの異なる事実を「戦 争」という一つのコトバで間に合わせる悪いクセはこの二十世紀の国際社会形成過程 で大きな影を落としている。

例えば、上記軍事法廷の「平和に対する罪」の「戦争」は「警察権の代行的行使」 の対象となる違法行為で、第一の意味である。訴追対象とされる「通常の戦争犯罪」 の「戦争」は第二の意味で、戦争違法化以前の「戦争」である。

次の例は日本の憲法で、その前文と九条である。日本で誰かが指摘していたことだ が、前文は国際刑法的思想の漠然とした表現であり、そこに出てくる「戦争」の反対 概念「平和」は第一の意味である。反対に、本文の九条では戦争違法化以前の「戦 争」、第二の意味にもどる。

ところが、延々と続く「九条論争」で、私達はこの第二の戦争違法化以前の「戦 争」に固執しているうちに、国際刑法的思考、しいてはルールが適用される国際社会 のイメージが私達の意識のなかで希薄になってしまったのではないのか。(後述する 「ローマ条約」に対する日本の態度を見ても、私はこの印象を強くもつ。)

その結果、地球上のどこかで大砲の音が響くと、それは「戦争か平和」のどちらか でしかなくなる。刑法的ルールを適用される国際社会が希薄で、いわば近代刑法以前 の「報復は良いか、悪いか」という問題設定になってしまうのではないのか。

●米国の二つの顔

次に、米国の意味論的分裂症は、この国が二つの顔をもつことである。第一の顔 は、国連を創設し、今回「国際テロ撲滅運動」を組織した米国で、第二の顔は、国連 を無視し、その分担金を滞納し、「報復」を叫ぶ米国である。分裂症がそうであるよ うに、どちらも米国なのである。

ヨーロッパ諸国は、このように二つの顔をもち、何が正義かを勝手に決める傾向の ある超軍事大国の危険を心得ているように思われる。例えば、1998年7月17 日、ローマにおいて国際刑事裁判所(ICC)設立条約が採択された。これも、米国 に国際刑法の上で歯止めをかけるためのものでもある。EUはこのハーグに予定されて いる裁判所の設置プロジェクトを熱心に推進している。

ルアンダやユーゴに対する国際法廷に賛成した米国は、自国の軍人や政治家が下手 すると「戦争犯罪人」として被告になる可能性がある裁判所設立には、猛烈に抵抗し ている。数日前ドイツの幾つかの新聞は、米国がこの国際刑事裁判所設置に協力する 国々に軍事援助をカットしたり、また拘留された米国市民の救出を可能にする国内法 をつくっていると報道した。またある新聞は、「米はいつの日か、ハーグの裁判所も 爆撃するつもりなのだろうか」と皮肉った。(ビンラーディン引渡しに関しても、こ のような裁判所が設立されていないことを惜しむ声が強い。)

ちなみに、現在まで米国を含めて139の国が署名し、43の国が批准を済ませた この条約に、日本政府は署名もしていない。日本のメディアも、もう少し大きく取り 上げてくれても良いような気がする。また半世紀以上も前の「勝者の裁判」に怒る日 本の人々も、今回本当にそうでない、設立以前の犯罪には遡及されない裁判所ができ ることに無関心のようである。私には、このような反応が理解できない。

冒頭に述べたように、国際社会の法的整備は、世界中の多くの人々が抱く不公平感 を少なくすることで、テロ対策としても本当に重要である。

また西欧諸国が米国の武力行使に協力を申し出ているのも、「我々も同じボートに 乗っていないと、進路が勝手に決められる」というドイツの政治家の発言からわかる ように、この超軍事大国の暴走に少しでも歯止めをかけるという側面もあるのであ る。反対に、口うるさいNATO諸国の乗船を避けるために、今回米は気心の知れた英国 だけを誘ったともいえる。

米国の武力行使の支援は、「世界の警察官」をなだめたり、すかしたりして上手に 働かせるのが目的でもある。ヨーロッパ諸国は今回のテロ事件で、米国にオーバーと 思えるほど哀悼の意を示した。これも米が孤立感を強めて奇妙な行動に走ってもらっ たら困るからである。

国際社会について、このように考えていくと、「国際貢献」とはオリンピックと違 うので、何も参加することに意義があるわけでない。