執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

きのう17日はインドネシアの独立(Merdeka)記念日だった。56年前の1945年、日本が連合国側に無条件降伏した2日後。スカルノとハッダがジャカルタでインドネシアの独立宣言を読み上げたその日である。翌日、スカルノが初代大統領に就任して、あらかじめ準備してあったイスラム信仰と民族主義など建国5原則を掲げた憲法を発布した。

●新たな戦いの始まりだった8月15日

しかし本当の独立を勝ち取るには4年におよぶオランダとの戦いが必要だった。1949年12月のハーグ協定でオランダがようやく「インドネシア連邦共和国」を承認するまで、インドネシアでは「内乱=独立戦争」が続いた。旧宗主国を相手に長期間にわたり血を流したのはインドネシアとベトナムだけだろう。

スカルノは翌1950年、新たに憲法を制定し、オランダが承認した「連邦」を破棄。1959年には大統領権限の強い45年憲法を復活させた。不思議なことに1945年の宣言文にはスカルノとハッダの署名とともに17-8-05の日時が刻まれていた。軍政下のジャワで使われていた日本の紀元2605年がそのままインドネシア独立宣言に盛り込まれたのである。

第二次大戦が始まる前、ジャワを中心にスマトラからカリマンタン、イリアンジャヤまでの広範な島嶼部は蘭領インドと呼ばれていた。ナポレオン戦争後の1825年の英蘭協定で現在のマレーシア(シンガポールを含む)との間に国境線が引かれ、そのままオランダの統治が続いていた地域だった。

日本の敗戦後、その蘭領インドは旧宗主国のオランダに引き渡されることになっていた。連合国側で旧植民地を放棄しようと考えた国は一つもなかったから当然である。連合国側ではなかったポルトガルもまた東チモールの領有権を回復したのである。

小泉首相は終戦の日に当たって、過去の戦争に対して「我が国はとりわけアジアの近隣諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」と陳謝し、マスコミはこぞって「我が国が」と損害を与えた「主体」を明確にしたと論評した。筆者も小泉首相の終戦の日の言葉を評価したい。

しかし、日本が戦争を止めたことによってアジアに平和が回復したわけではない。中国と朝鮮半島では内戦が始まり、それ以外のアジアでは日本に代わってかつての支配者が植民地支配を復活させた。インドネシアにとっては独立に向けた本格的な「戦争」の始まりだった。

「いい戦争」と「悪い戦争」があるのかどうかは知らないが、スカルノらが1945年に独立戦争を始めなければ、その後インドネシアという国家の枠組みが生まれたかどうか分からない。事実、蘭領インドに含まれていたイリアンジャヤ(西部ニューギニア)はハーグ協定後も引き続きオランダの統治が続き、東チモールはポルトガル領だったという理由だけでついにインドネシアに戻らなかった。

●戦争にあったもう一つの側面

4月の「MERDEKA」という日本映画をみた。日本が蘭領インドに進攻後、日本陸軍はジャワ防衛義勇軍(PTA)を設立した。インドネシアにとって初めての軍事組織で、日本の敗戦後はそのPTAが独立戦争の中核を担った。独立の戦士たちを育てた若き日本人将校の多くがそのインドネシア独立軍に加わって苦悩する物語である。

映画と併せて、スカルノの独立宣言の草案作業にも加わったという西嶋重忠氏が書いた「証言 インドネシア独立革命」(1975年、新人物往来社)と田中正明著「アジア独立への道」(1991年、展転社)を読み返し、戦争が持っていたもうひとつの側面を回顧した。

結論めいたことは言えないが、少なくとも戦争=悪という歴史認識に立ってしまうと人類の歴史はすべて否定されなくてはならなくなるとの思いに浸っている。