ブリュッセルで再会した黒髪のアンヌ(2)
2001年06月26日(火)萬晩報コナクリ通信員 斉藤 清
◆深夜の空港
零時を大分過ぎてコナクリ空港に着陸したエアバス機は、急いで客を吐き出す。タラップを降りたアンヌは、「着きましたね」とめくばせをしながら髪をかきあげる。照明は暗く、顔の表情までは確認できない。Tシャツのふくらみが、空港の頼りないまだらな灯かりに映し出され、すぐまた翳る。深夜とはいえ、まだぬくもりの残る湿った空気の中に、皮膚にからみつく熱帯の青臭い匂いが漂っている。また来てしまったな。わずかに口許をゆるめた男は、いつものように自分に話しかける。これで何度目になるのか、彼も数えたことはないのだけれど、忘れたいほどに重なった時間の連なりが、髪に白いものが混じるのを意識させる歳にしてしまっている。マングローブの繁みを抜けてきた海風が、アンヌのつややかな黒髪をゆらす。
パスポートコントロールを過ぎ、アンヌが出口の人ごみに向かって手を振ったのを合図のようにして、男は彼女のそばを離れる。それを見ていた出迎えの事務所のスタッフが、彼のショルダーバッグを受け取りながら、遠くのアンヌを指差して、「日本の人か」と訊く。男は曖昧に頷く。アンヌと彼女を迎えるはずの日本人パーカッショニストの姿を、目で追う男。その額にうっすらと浮かぶ油に、水銀灯のとげとげしい光が映りこんでいる。
空港でアンヌに紹介された長身のパーカッショニストは、「ケイスケと呼んでください」とわずかに頭を下げた。素足にサンダルをひっかけ、青白くやつれた表情に乾いた笑顔を浮かべ、後ろに束ねた髪がほこりっぽい。他人の名を、ファーストネームで呼ぶ習慣のなかった男はいくぶんとまどったものの、あえて彼の姓を尋ねることはしない。「電話番号はアンヌに伝えてありますから、そのうち食事をしましょう」と、男は二人に向かってフランス語で話す。ケイスケはアンヌの表情を確かめながら、正確なフランス語で礼を言う。
◆ハーフエンハーフ
胸元に巻きこんだ淡いすみれ色のマフラーを、ただひとつの彩りにしているアンヌは、まったく化粧をしていない。ギニアにいたときも、ずっと素顔のままだった。くっきりとした眉、鋭くはないがはっきりと、しかし控えめに自己主張をしている眼差し、整った鼻すじ、わずかに赤みのさした頬、いつも余裕をたたえているようにみえる穏やかな口元、そして過不足のない体躯。その組み合わせがアンヌを、派手ではないが充分な存在感と知的なやすらぎを感じさせる女性にしている。風土が人を育てるものなのか。
ダンス教室が終わってから、中央駅で地下鉄を降り、ベルギーへの観光客は必ず訪れるという古い広場グランプラスまでの石畳を下る。永年の汚れをすっかり洗い落とされ、まっ白に化粧直しされた旧市庁舎が、広場に向かってやわらかい夜の照明を浴びている。この広場には、昼間であれば花屋や小鳥屋がいたりして、殺風景な石の風景に彩りを添えているはずだけれど、この時刻ともなると人影もまばら。広場のはずれのパブ・ロイデスパーニュの前を通り、少し遠回りをしてピザ屋の並ぶ小路を抜け、アンヌが「気に入らなかったら言ってね」と念を押しながら、老舗のカフェレストランの扉を押す。ステンドグラスを高い天井の近くに配した、ゆったりとした空間が特徴で、地元の人が多い店であるらしい。打ち解けたやわらかい空気が流れている。男は、そのカフェレストラン「ファルスタッフ」の奥の方の席に腰を落ち着け、アンヌに満足の意味を込めて頷いてみせる。
「それじゃ、わたしもムール貝」
男は、アンヌをまねてムール貝を食べることにし、アペリティフにはこの店のオリジナルというハーフエンハーフを頼む。これはシャンペンと白ワインを半々に混ぜただけのもので、格別のものではないものの、アンヌとの再会を喜ぶためにはふさわしい飲み物だと男は思う。ふたつのシャンペングラスが軽い音をたてる。
そういえば、ブリュッセルでのこの男はいつも一人だった。ギニアへの旅の途中この街に立ち寄り、古い建物の間の路地をあてもなく散歩している時も、街角のカフェで一杯のビールをそっと傾けてちょっとため息をつく時にも、いつも自分とだけ話をしていた。この男にはそれが習い性となっていて、それ以上を望むこともなかったはずだけれど、今夜はアンヌが気を遣ってくれていることに、いつとはなく心が和むのを感じている。(『金鉱山からのたより』から=つづく)