執筆者:文 彬【中国情報局】

台湾海軍の軍艦工場に勤務していた尹清楓技師は、軍部の技術畑のエリートであるだけでなく、バレーボール選手並の体格をしていてハンサムだった。また、社交的で同僚の間でも評判が良く、上司もいつも彼のことを誉めていた。その上司の推薦で1993年春、尹は海軍購買室の大佐を拝命して輸入軍艦を技術的にチェックする実務担当者となった。役得も多く、更なる昇進も見えるようなポストで同僚達の憧れの的となっていたが、尹自身にとってはまさに命取りの栄転となった。

1993年9月、尹は同室の郭力恒大佐及び謝聰敏ら立法院国防委員会メンバーと共にフランスの西部にある造船工場を視察した。尹の任務は建造中のフリゲート艦の性能を調査することである。

長年軍艦の研究に携わってきた尹は、艦上の設備を念入りに調べるうちに、フリゲート艦のレーダーとミサイル発射システムなどが、フランスが中国大陸に売却したものとまったく同じものだと分かった。このような軍艦では大陸の海軍と戦うことが出来ないと尹は同行の人に不満をもらし、またあるとき、尹は思い出したように、同行の立法委員に「命の危険を感じている。私が陰謀の犠牲者になったら、犯人を捕まえて下さい」と意味不明な話をしたりしたが、これは尹の冗談だと思われて、真剣に受け止める人はいなかった。

しかし、帰国後、尹自らの予言は当った。同年12月10日午前、宜蘭湾岸の烏岩角沖で作業していた漁師が変死体を発見して警察に通報したところ、着衣などで尹であることが分かったのだ。後頭部を鈍器で殴られた痕と体中の傷痕から判断して、他殺体と判断するにさほど難しいものではなかった。また、尹の体格から見ても少なくとも3人以上の犯行ではないかと警察は推理した。

にもかかわらず、海軍当局は当初、自殺と主張して警察の捜査を妨害していた。警察の許可なしに尹の服を交換したり、尹の執務室のドキュメントや録音テープを持ち出したりしていたため、警察は通常の職務執行でさえも思うようにいなかった。

夫の死は「軍腐敗の犠牲」だと主張する尹夫人の執拗な追究と日に日に高まるマスコミの圧力で、最終的に軍も事件の調査に協力せざるを得なかったが、汪傳浦など軍需ブローカー数人はすでに台湾を離れ、警察当局の国際氏名手配が出されたものの、結局逮捕することはできなかった。また、事件の真相を知っていると見られる郭力恒大佐も機密漏洩で検挙され、無期懲役の判決を受けたものの、暗殺事件の訊問となると彼はいつも口をつぐんでしまい語ろうとしない。

真犯人が捕まるまで、尹清楓大佐の死に纏わる謎は永遠に解くことはできないが、警察とマスコミでは尹に対する殺意はおおむね以下のことから来ていると推理している。

尹が帰国後直ちにフリゲート艦に装備される設備をイタリアか、ドイツから購入するよう意見書を提出したため、トムソンからリベートをもらう予定の軍関係者とフランス系軍需ブローカーの恨みをかったのではないか。また、意見書を出した尹の意図も必ずしも白ではない。彼も自分の女性問題の証拠を握っていると言われるドイツ系の軍需ブローカーと頻繁に接触していたし、暗殺される直前まで、フリゲート艦購入にかかわる軍関係者の電話などを頻繁に録音していた。それが相手に恐怖心を与え、殺人という極端な行為に走らせたのではないかと。

警察当局は最初から、海軍大佐殺人事件をフリゲート艦との関係に興味を持ってきた。そして、事件に何らかの形で関与していたものとして海軍総司令官を含む現役将校十数人の名前が浮かんできた。これらの人々の多くは長年武器の購入に携わってきたし、また卒業校や出身地の一致などで、海軍内部では同じ派閥に属されていたので、結束力も強かった。そのため、警察当局が再三揺さぶりをかけ、高額懸賞金を出したにもかかわらず、結局有力な証拠を手に入れることはできなかった。

そうこうしているうちに、フリゲート艦の購入にかかわってきた海軍将校が相次いで退役した。事件発生現場からなるべく遠くへ離れたいという気持ちからか、あるいはマスコミが憶測しているように、海外の銀行に預けたリベートを求めてからなのか、退役後海外に移住する将校も多かった。(つづく)

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