執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

茶が世界の歴史を変えたことはあまりにも有名すぎる話である。中国に銘茶がなかったら、イギリスが中国人に阿片を大量に売り込むことはなかっただろうし、アメリカ独立の契機となったとされるボストンのティーパーティーもあり得なかった挿話である。

●固形茶は遊牧民族のビタミン源

たいそうな話をしようというのではない。土佐の山間でいまもなお「碁石茶」という固形の茶を生産しているという話をしたい。高知県大豊町は高松と高知を結ぶ土讃線沿いの寒村である。碁石茶を生産しているのはもはや数件の農家でしかない。

採れたての茶葉を大釜の上の桶に入れて蒸し、蒸された茶葉を屋内の板の上で平積みにする。発酵が進み5日ほどでカビが発生したころに大桶に1週間から10日ほど漬け込み、これを一寸角に刻んで天日で乾燥させると出来あがりである。出来上がりが碁石のような形をしているところから碁石茶と呼ばれる。馬糞茶と呼ばれたこともあるそうだ。

日本で飲むふつうの茶は、茶道で使う粉茶もしくは急須に入れる茶葉の二通りが一般的。中国ではほとんど茶葉を使用するが、四川省、雲南省からビルマのシャン高原にかけて長らく「磚茶」と呼ばれる固形の茶を生産し続けている。チベットやモンゴルといった遊牧民族が使用する茶がほとんどがこの「磚茶」で、固体の茶を熱湯の中に刃物でそぎ落としバターや牛乳を入れて煮込む。野菜の摂取量が少ない民族にとって茶は貴重なビタミン補給源なのだそうだ。

土佐の山間で生産していた碁石茶はかつては讃岐まで運ばれ、塩飽諸島の船乗りたちに食されていたという。塩飽諸島の船乗りは遠くは塩飽水軍と称し、西方の村上水軍と共に瀬戸内海の海運を牛耳った。幕末に勝海舟率いる咸臨丸が初めての太平洋横断を敢行した時の船員の多くは塩飽の人々だった。ひょっとしたら遊牧民同様に船乗りたちにもビタミン補給が必要だったのかもしれない。

●茶を生んだ照葉樹林帯の広がり

筆者の義理の父親は大工の棟梁で金融機関というものをあまり信用していない。若い頃より貯蓄をほとんどすることなく、生まれ育った山間に植林を続けた。どれほどの広さか知らぬが、斜面を見上げながら「おまんの時代にはまだ切れんが孫や曾孫の時代にはふっとい檜に育つきに」というのが自慢である。これは余談である。

その斜面の木々を切ってしばらくすると生えて来るのが茶の木なのだそうだ。九州から紀伊半島南部にかけてのこの一帯は照葉樹林帯で、特に四国山地はつい最近まで焼畑農業をしていた地域として知られている。明治初期の統計では、日本最大の茶の生産地は静岡でどういうわけか愛媛県が二位。宇治を抱える京都府より多くの茶を生産していたという実績がある。伊予地方が殖産事業として茶の生産に力を入れたというだけでは説明がつかない部分がある。

茶の木は弘法大師が中国から持ちかえったとされているが、どうやら茶の木が自生していた可能性もあるのだ。このことは守屋毅著「お茶がきた道」(NHKブックス)にも書かれ、司馬遼太郎の「街道をゆく」にも茶の自生について触れた個所がある。

照葉樹林帯というのはカシだとかクスといった広葉樹が育つ地域で、雲南省から福建省、南部九州、四国、紀伊半島南部にかけてがまさにその照葉樹林帯に当たる。四国の山間は日本で唯一、京大の文化人類学のチームが研究対象としたこともある地域としても有名である。日本民族の成り立ちについては諸説あるが、朝鮮半島南部を経由したどうかは別にして焼畑農業を含めて照葉樹林帯の文化に共通性があると考えるのはロマンである。