執筆者:船津 宏【台湾研究家】

豊かになった今、貧しい時代を振り返り、現状を反省することこそ意義がある。「豊衣足食的生活」(同国での表現、意味は分かると思う)の台湾で頼東進さんの伝記「乞食の子」がちょっとしたブームになっていたり、粥(かゆ)を中心とする粗食メニューに関心が集まったりしているのは、そういう時代のムードと無関係ではなさそうだ。頼さんは陳水扁のように一国の大統領に上り詰めた訳でもなく、消防機器メーカーの一社員として平凡な生活を送っている。しかしその人生は波瀾万丈、極貧の連続であり、涙なしでは語れないものがある。台湾中の涙を誘った感動の物語を紹介しよう。

「1999年度全国十大傑出青年」に選ばれた頼さんは中美防火公司の工場長兼生産部経理として働く。この賞は国が毎年全国の青少年の励みになるようにと表彰しているものだが、その中でも特に頼さんの人生は際立っており、自伝「乞食の子」(出版元=台北市の平安文化社)が発行された。

12人兄弟姉妹の長男で、父は盲目の乞食、母は知的障害者。姉は売春宿に売られ、一家は墓場で寝泊まりする。着る物は死人の服をその家族から分けてもらう。本の題名も直裁だ。しかし「貧しい子供」くらいの甘い題名では決して表現できない人生がそこにはある。

●流浪する人生にいちいち傷ついている暇はない

7歳の夏、飢えた兄弟姉妹を救うため、見知らぬ他人の玄関に立つ。台風で道路には瓦が飛び散り、木の枝が飛散している。どの家も固く門を閉じて台風が去るのをじっと待っている。そんな家々を一軒一軒訪ね歩いて余り物をもらう。その晩の一膳のご飯さえその一家にはなかったのだ。年を追うごとに兄弟姉妹は次々に生まれて来る。

普段は盲目の父親が盛り場や駅の片隅で月琴を弾き語り、飲み客や通り掛かりの人のわずかばかりの恵みを頂く。住む家とてない一家は墓場を住居としていた。

そんなある夜、通行人が「この子ははまだ学校に行っていないのか。おやじさん、このままだとこの子もいつまでも乞食だ。そのまた子供も乞食になってしまうよ。」と話し掛けてきた。

その男が続けて言う。「子供は勉強が大事なんだ。勉強して初めて世に出ることができる。」―― 少年にとって「学校」「勉強」は縁の遠い言葉だった。しかし、「勉強して世に出る」という言葉が心に妙にひっかかった。

男は台湾通貨10元を父親に渡し「この金はこの子の勉強に役立てるんだよ」と言うが、父親はいつものように袋の奥にしまいこんでしまった。――失望する少年。しかし幸運がまたやってきた。違う日、こんどは別の人が同じように「この子を学校にやるんだよ」と父親に話し掛けてきた。教育になどまったく関心のない父親だったが、度重なる説得に応じ、親戚を頼って頼少年は10歳で小学校1年生になった。

少年の努力は少しずつ実を結ぶ。書道や美術に才能が現れ、6年生の時までに成績も良くなり、模範生に選ばれるまでになる。弟も同じ学校に入るが成績は最低。できる兄と出来の悪い弟のコンビは有名になった。

●おしんを超える感動の実話

学校に入る時、初めて役所に戸籍というものがあるのを知る。学校ではクラス資料のため父親の職業欄を記入する必要がある。「父親は乞食ですがそう書くのですか」と少年。担任の陳先生は「そんなことはないよ。家庭経営と書いておけばよい」――少年と陳先生の間に心が通う。

10年間墓場に暮らし、20年間乞食をした男はその後どうなったか。別に大金持になったわけではない。40歳を過ぎた今、結婚し子供も得た。父は亡くなったが、知的障害の母や弟を引き受けて、一生懸命暮らしている。生活は豊かではないかも知れないが、どうしようもなかった宿命を人並みにまで引き上げた男。

本のライナーノーツには「日本には阿信(おしん)の物語があるが、台湾にだって阿進の物語がある」とある。台湾でも80年代「おしん」が大ブームになりその後何回も再放送された。橋田嘉賀子の著書も売れた。「阿進」は頼東進さんの愛称だ。屈辱の境遇の中、人生の不平等に負けず、毎晩3~4時間の睡眠時間で頑張った。そんな男が50人の工員を預かる工場長をしている国。おしんは架空の人物だったが、阿進は現実にこの台湾に生きている。台湾人は汗と涙の物語が大好きだ。

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