電車のなかのグローバリゼーション(下)
執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】
★イタリアの痴漢と日本の痴漢の相異
イタリアに出掛けたドイツ人の女性が驚くのは自分が四六時中至るところで「女」
になること強いられる点である。というのは、すきあらば口説こうと男性は待ち構え
ていて、絡むような視線を投げかける。うっかり見返したら「求愛行動」の次のス
テップが始まることを覚悟しなければいけない。その後、求愛行動の種々の手順を踏
んで、いつかベット・インという終着駅はに至るが、終着駅はどこでも似た風景で
あっても、途中のプロセスは文化によって異なる。
イタリアとドイツでは、よくいわれるようにジェンダー文化が本当に違うのである。
いくら色気の乏しいドイツ社会でも若い男女が並んでベットに入れば「女」と「男」
になることは間違いないが、日常生活の多くの場面で自分のジェンダーを意識しない
ですますことができる。
それとは対照的にイタリア社会の成員は例え労働していても「女」として、また
「男」として四六時中気合が入っている。
このようなイタリア文化を背景に満員電車のなかでの痴漢行為を考えてみる。この行
為は「搦め手からの口説き」に近いと見なすことができないだろうか。つまり求愛文
化が定める中間ステップのバリエーションのようなものに思える。女性が満員電車の
なかで痴漢に遭って怒り出すのも、自惚れが強くなかなかあきらめようとしない男を
罵って追い払うのと似ているのではないのか。私は痴漢体験をした女性から聞いただ
けであり、残念なことに現場に立ちあったことがないが、イタリアでの痴漢をこのよ
うに想像している。
次に日本の痴漢である。これもイタリア的痴漢と同じで、「搦め手からの口説き」の
一種と見なすことができるであろうか。日本で一口に電車のなかの痴漢といっても
色々なケースがあるかもしれない。とはいっても、日本で見られる痴漢がイタリアの
ように求愛行動の手順の一つと見なすことは絶対できないと私には思われる。
その根拠は、日本で痴漢の被害にあった女性の反応が全く異なるからである。すでに
述べたようにイタリアの満員電車のなかで突然女性被害者が罵りはじめることがあ
る。反対に、痴漢の被害にあった日本の女性は自分の怒りや不快感を表現しないし、
できないことが多い。これは、さわる・さわれるの現象面では似た出来事の根底に文
化的に異なった「男女の関係」が存在することを物語る。
★満員電車が人里離れた「森の中」になる
本当のところ、日本の電車で被害者の女性が怒らないことは奇妙なことである。と
いうのは、彼女にとって加害者は車両がいっしょになっただけの関係である。この点
で職場のセクハラと異なり、本来遠慮しないで怒ったり罵ったりできるはずである。
私と「痴漢」について話したドイツ人女性の多くが注目するのはませにこの点であ
る。彼女達は異口同音に電車のなかでさわられたら「一度目は無視するかもしれない
が、二度か三度のところで大声をあげるか、あるいは罵ったりあるいはぶん殴るなり
して絶対反撃にでる」と宣言している。
日本人女性がそのように反応できないことでドイツ人に思いつく説明はいつも決まっ
ている。
日本社会では幼児期から女性に摺り込まれた「理想的女性像」があり、大声で怒った
り罵ったりすることはこれに反する。だからこそ、日本の若い女性が(自分達のよう
にはしたなく)わめきちらすことができない。彼女達はこう理解しようとする。この
説明は間違っていないかもしれないが、問題の根はもっと深いように私には思われ
る。
伝統的男性社会のなかには、よく女性成員が出入りできる空間が決まっていて、女性
はこの中にいる限り男性の付属品(妻もしくは娘)として共同体の保護の対象になる
ことがある。ところが、一度この空間を離れるとこの女性は保護の対象にならず、何
が起こっても自業自得とされる。例えば、男性が森の中をひとりで散歩して強盗の被
害にあえば、運が悪かったと同情されるだけである。ところが、同じ状況で同じ被害
にあった女性に対して、私達は一応同情はするが、寂しい場所をうろうろして「挑発
した」ことを非難するはずである。この種の性差別(セクシズム)のメカニズムは、
世界中でフェミニストに散々指摘されてきたことである。
多くのドイツ人女性と話すまで、私はあまり考えなかったが、日本の電車の中で起こ
る痴漢にはこの性差別のメカニズムが働いているのではないのだろうか。というの
は、多数の人間がいるはずの満員電車という空間が、奇妙なことに加害者男性と被害
者女性の二人しかいない、すでに述べた女性が一人歩きするべきでない「森の中」の
ようになってしまうからである。この「森の中」で女性は共同体の保護の対象として
扱われない。同じような論理で満員電車のなかで痴漢行為が社会的に甘受されてきた
のではないのか。だから被害者もろくろく文句を言えなかったのである。
この数年来痴漢被害者のために女性の相談係りが設けられたり、ポスターが貼られて
痴漢をはっきりと犯罪扱いするようになった。これらは痴漢が性差別という認識に基
づく対策で、徹底されれば効果があると思われる。
★「第三者不在」の意味
被害にあったドイツ人やイタリア人の女性が電車のなかで罵るのは、「満員電車」が
人里離れた「森の中」でなく、「第三者」というべき他の乗客が自分達の言い分を聞
いてくれると思っているからである。また状況次第では連帯精神を期待できるのであ
る。もちろんこの前提がなければ、怒りを感じてもそれを表現する気にもなれない。
満員電車に「第三者」が存在しない問題は、すでに述べたように性差別のメカニズム
の反映と見なすこともできる。でも、この現象は同時に別の性格の問題とも絡み合っ
ていると私には思われる。
「第三者」が消えてなくなるのは痴漢の被害を受けた女性に対してだけであろうか。
もしかしたら、この「第三者」の不在こそはこ日本社会で色々な現象となって現れる
のではないのだろうか。
別の観点からこのことを見てみる。
「強いか弱いか」とか「勝ったか負けたか」だけを問題にし、他の観点をないがしろ
にする考え方はソーシャル・ダーウィニズムと普通呼ばれる。外から見ていると、日
本で起こる事件がこの「弱肉強食」的世界の出来事以外の何物でもないと思われるこ
とが本当に多い。
ここで冒頭の「南ドイツ新聞」の記事に戻る。この39歳の男性は「第三者」の存在
など感じないで、女子学生の抗議を無視した。それは自分が強者であると感じたから
である。ところが今度は突然自分が弱者と感じて逃げ出し、最後には窓の外に消えて
しまう。ということは、強いか弱いかだけの話しである。
例えば「不始末」を起こした企業の幹部が土下座をする。この幹部は電車のなかで逃
げ出した痴漢男と同じで、旗色が悪くなったからそうしているだけである。またそれ
まで弱かった「被害者グループ」が土下座を要求する。それは彼らが強くなったから
である。ということは、どちらも「強いか弱いか」だけのシーソーゲームをしている
ことにならないだろうか。
欧米のメディアは「土下座場面」を日本的として好んで報道する。もしかしたら私達
自身もこれを日本的と思い込んでいるのではないのだろうか。でも「強いか弱いか」
のシーソーゲームなど、どこの社会でも多かれ少なかれあることである。
いずれにしろ、満員電車のなかで「第三者」が消えてしまい、人里離れた「森の中」
なる奇妙な問題を無視して「公」とか「国家」を論じることはあまり意味ある作業と
は私に思われない。