執筆者:色平 哲郎【長野県南相木村診療所長】

バブさんの講演録 2000年01月08日(土)1400-1600 東京大学医学部図書館三階にて

<自分のことを知る>

今日皆さんにお話するのは、私の人生での、いくつかの出会いやできごとについてです。

私たちは、先ず自分自身のことを知る努力をしなければいけません。

あなたのおじいさん、おばあさんがどのように苦労して、あなたのお父さん、お母さんを育ててきたのか。

そしてお父さん、お母さんがどの位に働いて、あなたを育ててきたかということ、です。

私の生きてきた道について、お話申し上げます。

私はバングラデシュのひどく貧乏な農村で生まれました。

あとで村の写真をスライドでお見せしますけれど、私の先祖の代々は農村で生活してきました。

このスライドの建物は、私の勉強した小学校です。

日本の医学生さんや子どもさん方にお話する時に、

「先生、これは田んぼの中に小学校があるのか、小学校のまわりに田んぼがあるのか、どちらですか?」

とよく聞かれるんです。皆さん想像してください。

私もこの、電気のきていない建物で勉強してきたんですよ。

雨季になると、背丈にもなる水の中を歩いて村から学校に通いました。

私の姉2人は、水の中を歩いて学校へは行けないので、私が勉強してきて、

後で勉強内容を姉2人に教えて、3人で一緒に教育を受けたんです。

そんなふうに育ってきました。

さあ、ここで、皆さんに質問しますよ。

皆さんは小学校時代、どんなところで勉強しましたか?

<人間として人間の世話をすること>

私の叔父さんは、仏教の家柄の23代目のお坊さんで、大僧正でした。

今、私の弟が24代目の僧侶になりました。

弟は東京大学に留学して仏教の勉強して、帰国しました。

この叔父さんが、私にいろいろなことを教えてくださったんです。

叔父さんは「何もないところから、自分がはじめなさい」と厳しくおっしゃいました。

「自分ができるところから、とりくみはじめなさい」という教えです。

どういうことかと言いますと、叔父さんは大きな孤児院を運営していました。

私は叔父さんに導かれて、孤児たちの体をきれいに洗ってあげることにとりくみました。

自分にできることからはじめてみた、というやりかたです。

この時から「人間として人間の世話をすること」をはじめました。

孤児たちは皮膚の病気でしたが、その後元気になりましてね。

とてもうれしかった。その後孤児のひとりはヨーロッパに留学しました。

私は中学生でした。

このとりくみは、その後の私の生き方に大きな影響を与えています。

<自分を探す旅>

私は、将来必ず医者になって、バングラデシュの村で村人のために働きたいと心に決めていました。

それで、村で働く医者になる教育をうけることができる、そんな医学校を捜していました。

2番目の兄が京都の大学で勉強していましたから、兄を頼って日本に来て、探してみました。

しかしいろいろ調べた結果、残念ながら日本の医学がとても専門的なものになっていることを知りました。

日本で医学を勉強しても、電気のきていない自分の村で働くことはできないのではないかと考えました。

がっかりしたというか、ショックを受けて、どうしたらいいかと考えこみました。

日本で私はいろいろな仕事やアルバイトにとりくみました。

学費を貯めるためでもありましたが、等身大の働く日本の人々と知り合いたかったからです。

学問研究の上では先駆者になれなかった私ですが、若い私はこのとき

外国人労働者としてのパイオニアになっていたのです。(笑)

地域の中で働きながら、日本のあちらこちらを訪れました。

仕事を手伝いながら、生きた日本語を勉強するようにしました。

友人もたくさん日本にできました。

そしてフィリピンに行ったり、マレーシアに行ったり、ソウルに行ったりして

アジア各国の大学医学部を訪ねました。

医学校で勉強して、その経験を生かして自分の村に入りたい、それだけを考えていました。

この写真は長野県で労働者をしていた時のものです。

この時の私の担当は、畑でじゃが芋を作ることでした。

じゃが芋がとても大きく育ったので、友人に「人間の先生になるよりも、じゃが芋の先生になりなさいよ」

と言われたりしました。でも私はあきらめませんでした。

日本で働きながら、自分のアイデンティティを探す旅がはじまりました。

感じたことは、「人間として人間の世話をする」為にはまず、人間を深く理解するべきであるということです。

「医者として」働きはじめる前に、人間を知ることを勉強し、

「人間として」人間の世話にとりくむ経験を持った方がよいと強く感じました。

ここから、はたちの私の旅がはじまりました。

人と人との出会いとつながりはとても大事です。仏教でいう御縁でしょうか。

人間を知った上で、人間として、人の心を大事にしながらお世話をするのが、

とても重要なことだと考えています。

<フィリピンで学んだこと>

フィリピンでのことを申し上げます。

その中から、ご自分で考えを発展させていく材料にしてください。

それがどうみなさんの今後の生き方につながっていくのか、どのように国際協力にとりくむか、

自分の仕事と関わっていくのか、みなさん自分で拾いあげてくださいね。

スライドのこの学校は、フィリピン国立大学医学部のレイテ校です。

フィリピンの医学部では、アメリカ式の教育制度で英語で医学や看護学を勉強しています。

それでフィリピンの大学を卒業してすぐにでも、アメリカ合衆国へ行って働くことが可能です。

1974年には、フィリピンで大学を卒業した医師や看護婦の70%以上が、

すぐにアメリカに行ってしまいました。

フィリピンは経済的に貧しいですから、折角の人材が都市へ、そして海外へと「頭脳流出」しまうのです。

そこで農村地域に実験的な医学校を作って、

なけなしのお金で育成した人材が都市へ流出してしまうことについて対処しようとこのレイテ校ができました。

PHCを担う人材育成との文脈で、WHOやUNICEFも設立に協力しています。

看護助産の課程と医学部課程が、直列につながったカリキュラムをもっているのが、レイテ校の特徴です。

最初に助産婦の勉強をして免許をとり、地域でしばらく働きます。

村人の推薦をもらって再び学校に戻り、正看護婦の勉強をします。

看護婦として村で働いた上で、一部の学生が学校に戻って医学部の勉強をします。

(日本と異なって)助産婦の勉強をしている間も週の半分は、自分の出身の村に行って働きます。

週末にも村に戻って、勉強した内容を村人と分かち合います。

助産婦の国家試験の後は、出身の村に戻って、実地に助産婦の仕事をします。

学校で習ったことを、村人のために使うのです。

看護学校で看護学を勉強し、その後(全員ではありませんが)医学の勉強をします。

日本での様に、看護学校と医学校が分離されてはいません。

「はしご状カリキュラム」と呼ばれています。

医学部の勉強は(日本の医学校とは異なって)午前中は講義に出て、午後からは実地のことにとりくみます。

病院で入院中の患者さんのために働いたり、村々を廻って往診したり検診したりします。

医学部の2年生になると、村の家に村人と一緒にしばらく住んで、

今まで助産婦としてまた看護婦として、習ったことを実践します。

3年生になったら、病院に戻って大学で勉強します。

4年生になったら、また村に戻り、現場で実践します。

このレイテ校で、私は全部で10年かけて勉強し医師になりました。

村人と一緒に勉強するのです。

大きな講堂で講義をするよりも、先生が後ろにいてアドバイザーとなり、小グループで勉強するのです。

今私が働いている日本の大学では、講義中に眠くなったり携帯電話が鳴ったりすることがありますが、

こういうところでは勉強中に眠くならないですね。

<村を知る>

村に入って一番最初にすることは、村を見わたしてみることです。

この村には何があるのか。小学校があるかどうか。井戸があるかどうか。

水質はどうか。村人の家の中にはどの位の持ちものがあるか。

そういったことを私たち学生は調べておかなければなりません。

村のリーダーと一緒に、私たち学生ふたりで村人にインタビューします。

各戸にトイレがあるかどうか。

トイレがあったとしても、使えるようになっているかどうかわからない。

ちゃんとトイレを使っているかどうかを聞く。

想像してみてください。

トイレがあっても見栄えのためになっていて、実際には使っていないこともあるんです。

お母さんたちにはいろいろ基本的なことを説明します。

私たちは可能なら、4人か5人の若いお母さん方をグループに組織して、

助言してサポートしながら一緒に仕事をします。

例えば、手が汚くなって外から子どもが遊んで帰ってきたら、

手を洗ってから食事をさせる、ということが大事です。

ひとつひとつ細かく説明をしないと、子どもが下痢になってしまいます。

地域に行くと、ひとりひとりの患者を診ることももちろん重要ですが、

村全体、地域全体のことを観る必要があります。

それでは私たちは何を重点的に、観察しなければいけないのでしょう?

考えてみてください。

例えば、村のお母さんたちが理解できる「ことば使い」で、

肺結核という病気のことを説明できなければ、地域で役に立たないでしょう。

国際協力の現場でも同じです。

あなた方が日本に戻ってきたら、それでプロジェクトは終わりです。

そういう経験をお聞きになったことがあると思います。

そうならないためには、その国のことを深く掘り下げて理解する必要があるのです。

この写真は96年にレイテ島の村で撮ったものです。

村の健康教室の光景です。小さい教会で村人が集まっています。

82年に私がやりかたを教えてあげたお母さんたちが、

今も毎月一回は集まって子どもの健康状態を看ることにとりくんでいます。

申し上げたいのは、たとえ私がいろいろ現場でとりくんでも、

私がひとりですべてを背負ってやっていたら、

私がいなくなった後、活動は続かなかったかもしれない、ということです。

しかし私たちは地域のお母さんたちと一緒に考えながらとりくみをはじめたので、

私がいなくなった後も、お母さん達は自分たちでできることを続けることができました。

<人と人の架け橋>

戦争がとてもひどかったフィリピンのレイテ島で、日本の医学生さんたちを受け入れてることにとりくみました。

ある時、村のおじさんが「自分が生きているうちは、日本人の顔を二度と見たくない」と言いました。

学生さんたちの受け入れ準備をしている間に、私は10回位このおじさんのところに通いました。

そうしたら、おばさんが、話してくれたんです。

「彼が小さいときに日本の軍隊がおじさんの目の前で、おじさんのお父さんを殺した」とのことでした。

この不幸な関係を是非作り直しましょう、とおじさんに私はお願いして、日本人の学生を連れていきました。

一週間くらい彼のうちにホームスティした後、帰るときになってこのおじさんは、

日本の学生と握手して、「戦争のことを忘れましょう。友達になりましょう」と言ってくれました。

国際協力は、人間と人間の架け橋だと思います。

機械があるから、お金があるから、やって来ましたというよりも、

人間として人間の世話をする、人として人のつながりが大事だと思わないと

なかなか続けることはできないと思います。

<バングラデシュ>

バングラデシュは、国民のほとんどを農民が占める国です。

ガンジス川の下流に位置し、土地の標高が低い。

洪水が毎年のようにやってきます。ガンジス川は長い川です。

上流のインドやネパールで大雨が降ると、バングラデシュでは天気がよくても洪水になってしまう時があります。

そうなると、水量が多く川の流れがとても強いので、家も家畜も流れてしまうんです。

このスライドでは鉄道線路の端にたくさんの家がありますね。

この一枚の写真から、ここに住む子どもたちは予防接種をしているかどうか、

トイレはどうしているのだろう、飲み水はどこから持ってきているのか、、、

こういったことに、考えを進めなければいけません。

国際協力で必要とされるものの見方は、このような想像力をのばして考えることです。

発展途上国を、調査団として訪れた場合を想像してみてください。

日本がどのような援助を、どこにいつしたら本当に人々の役に立つのか、こういう想像をのばしてほしい。

若い学生さんたちこそ、特にこういうものの見方の基礎を作らなければならない。

若いうちに旅をして、人々と出会い、お世話になってください。

現場で考えて、人々の生活を見る目を育てなければならないのです。

<一生の仕事>

私は若い人たち向けに教育講演をする時、私のおばあさんの教えを思いだします。

私が小さい時、毎朝「起きなさい、起きなさい」と言われました。

私は毎朝早く起きておばあさんと一緒に庭から花をとって、お寺にお参りするようになりました。

すると、次におばあさんが厳しく教えてくださったことは、

「自分で起きるようになったら、今度は弟たちを起してあげるようにしなさい」ということでした。

これは、当時の私には理解できないことでした。

単に弟たちを起して一緒にお参りすることだと思っていました。

今は分かります。

自分が何かできるようになったら、それを後輩たちにお伝えするのが次の仕事になる。

という深い意味がこの教えにはありました。

おばあさんは私に一生の仕事を与えてくれました。

<ネパールのお母さんと子どもたち>

ネパールでの出来事です。

山の村で聞き取り調査をしました。

お母さんたちに「いちばん近い診療所は、どの位遠いのですか」と尋ねたんです。

「すごく近い」といいます。実際には歩いて1時間かかります。

「ちょっとあります」というときは、歩いて2時間かかる。

車が普及している日本のお医者さん方にはいつもこの話をするようにしています。

勉強になったのは、お母さんたちにお目にかかってはじめて、

村人の本当の気持ちを知ることになったということです。

あるときは3日間かけて山を越えて、病人が私たちのところへ訪ねて来ました。

どんな想いで患者が医療機関を受診しているのか、想像力を延ばすことが重要だと思います。

これはネパールの村の子ども達です。

太陽の光が、後ろの方からきている写真で、朝の太陽の光です。

この子たちは今日の朝ご飯を食べたでしょうか。

笑顔の子どもたちです。

でも、一日一食のことがあるんですよ。

皆さん、想像してみましょう。

94年にこの写真を撮りました。

この子たちは学校に行く時間にここで遊んでいて、学校に行っていなかった。

6年後の今日、この子どもたちが学校に行っているかどうかはわかりません。

私たちはこの子たちに、学ぶ機会を与えなければならないのです。

<なにかにぶつからないと、本当のことはわからない>

五年ほど前、神戸で大きな地震がありました。

この悲劇の地震が起こる一年ほど前、私は神戸の高校の先生方の前で講演をしました。

スライドを使って、アジア各国の子どもたちの生活の様子をお話しし、きれいな水の大切さを訴えました。

講演のあと、ひとりの教頭先生が立ち上がって、

「日本人はそんなに頭の悪い者ではありません。一時間の講演で40分間も、

お水は大切なものです。お水は大切なものです。と繰り返す必要はありません」とおっしゃいました。

私はお答えができずに困ってしまいました。

そんなことがあって、大地震のあと、3週間ほど経ったある晩、私の自宅に電話がかかってきました。

最初は、「だれかなー」とわからずにいました。

「高校の教師ですが、バブさんですか?実は、きょうは謝りの電話です」

「えー。先生なんのことですか?」

「私は去年バブさんの講演会のあと、意見を言わせてもらった者です。覚えていらっしゃいますか?

私はこれまで毎日お風呂に入っていましたが、あの地震のあと今日までの3週間、お風呂に入れずにいます。

いま、本当にお水が大切であることをよく理解できました。

きょう、やっと電話が通じたので、まずバブさんに電話して謝りたいと思いました」とのことでした。

私はびっくりして、「先生、お身体は大丈夫でしたか?ご家族はいかがでしたか?」とお尋ねしました。

つまり、人間はなにか困難にぶつからないと気づかない、わからない、ということです。

病気になってはじめて健康のありがたみがわかる。

交通事故に遭わないと事故の怖さがわからない。

<洞察力>

「専門家」として看板を出す前に、学生時代に、自分で壁にぶつかりながら経験を積まなければならない、

ということを皆さんに特に強調したい。

「エキスパート」と称する人たちは、クーラーが入っている建物の中で論文を書いていて、現場を知らない。

エキスパートという看板を出す前に、自分でぶつかってぶつかってほしい。

学生さんたちにいつも申し上げていることです。

医者も患者も同じ人間で、社会の一員です。

ですから人間というものがわからなければいけない。

人間の弱さ、ずるさも含めて、深いところで人々を理解しようと努めることが重要になります。

そうしなければ人間として人間の世話をすることができません。

ほかの人の生き方を学びとる「洞察力」が必要です。

医学にも科学技術にも。残念ながら人間としての哲学・精神の光が欠けています。

だから、政府のODAなど外国への開発援助の場面でも「お金だけわたせばいい」

「モノだけあげておけばよい」という形だけの援助になってしまっています。

今日はたくさんの人が参加してくれて、本当に嬉しいことです。

どうぞ、私の今日の話の中から、考える材料をとりこんでください。

そして、みなさんで今後どのように国際協力にとりくんでいくのか、

どうやって関わっていくのか、みなさん自身で考えてください。

どうもありがとうございました。

スマナ・バルア医師(バブさん)

スマナ・バルア博士(44歳)は過去20数年にわたり、故郷バングラデシュの農村地域で、また医学生として過ごしたフィリピン・レイテ島他の各地で、女性の健康と出産、そして寄生虫学に関する地道な研究支援活動に、継続的にとりくんできた医師です。

特にレイテ島に於ては、フィリピン国立大学医学部レイテ校に在籍しながら助産士として働き、村々を廻って215人の子どもたちの出産を介助する診療活動に従事しました。外国人として初めて、大学所在地パロ市の名誉市民として表彰されています。

1993年、東京大学医学部大学院国際保健計画学教室に在籍してからの数年間は、論文執筆の傍ら日本各地(埼玉県、長野県、神奈川県等)で外国人労働者女性への「医職住」の生活支援活動に、医療ボランティアとしてとりくみました。彼が副代表を勤めるNGOアイザックは、1995年タイ政府外務省から表彰を受けています。

研究者としては、国連機関 WHOのコンサルタントとしてアジア各地(インドネシア、ミャンマー、ヴェトナム、ネパール、もちろんバングラデシュ)の現地を歩き、農山村で働く保健婦や助産婦への指導を通じて、村でのヘルスワーカーの育成にあたっています。

この点でプライマリー・ヘルス・ケアの実践者として、「母子保健」分野と感染症対策の現場で確かな足跡を残した、との評価を研究者仲間から得ています。

1999年、東京大学医学部より取得した博士号の論文テーマは「ミャンマーに於けるハンセン氏病への対処プログラム」です。

現在日本各地の医科大学や看護学校他で学生や研究者向けに日本語と英語で教育講演し、アジア各国の母子保健の現状と展望についての理解を一般に広げることに努めています。2000年4月からは国際医療福祉大学で講師として勤務する一方、東京大学医学部大学院国際地域保健学教室で非常勤講師を務めています。

色平さんにメールはDZR06160@nifty.ne.jpへ