執筆者:美濃口 坦【ドイツ在住ジャーナリスト】

3月2日と3日の二日間に渡って「2000年シンポジウム‐大学の未来」がミュンヘン大学で開催され、姉妹大学関係にある東京大学とミュンヘン大学の先生がグローバル化した世界で変貌する日独の大学を語った。当時話しを聞きながら思いついたことを今から書く。

●居心地がよいドイツの大学

19世紀から20世紀の前半までドイツの大学は人文系の分野でも科学・技術の分野でも、また世界をリードしていた。当時数え切れないほどの多くのノーベル賞受賞者をこの国の大学はうみだしたが、今や昔日の面影はない。ドイツの大学も本当に色々な問題を抱える。

昔は大学進学率が低かったのであるが、現在では40%近くまで上昇した。学生数が増大して大衆化の波が押し寄せてきたのに、大学のほうは輝かしい伝統があるために考え方を変えることができない。教育と研究を区別する意識が希薄で、学生はフンボルト以来の「大学の自由」という名のもとにほったらかしにされる。授業料もただ同然で居心地が良いために、平均卒業年齢が隣国と比べて27歳半と飛びぬけて高い。

この事情を、数年前当時のヘアツォーク大統領が演説のなかで「我が国では大学卒業後数年でミドルライフ・クライシスに突入する人々が多い」と茶化した。また卒業には他国の基準で大学院卒に相当する知識や能力が要求される。そのため卒業資格を取らずにやめる学生の割合が半分近くで、これも色々な「お免状」を用意する方式のほうが良いと批判される。

●温存された講座制

研究面でもどこか時代錯誤的である。職人の世界にマイスター(親方)がいるように、大学には教授資格がある。この教授資格論文が受理されないと一人前の学者として扱われない。19世紀以来のタコツボ型講座制が温存されていて、これを審査受理するのは長老教授である。

その結果、長老に40歳近くまで徒弟奉公のできる性格の持主が大学に残る傾向になる。今でも時にはドイツ人がノーベル賞をとることがあるが、こんな大学内職人制度を嫌って外国に流出したドイツ人学者であることが多い。

今回のシンポジウムでは、大学活性化の方針として縦型の講座制を打破する学際研究を奨励する点で日独出席者の見解が一致した。この事情は、明治の日本がドイツ型大学制度を取り入れたので、日本の大学にも類似した縦型構造が残っていて、活性化となると学際研究という横の関係をいじるしかないからである。

大学教育の時代への対応という点では、日本のほうが遥か先を進んでいる。ドイツの大学改革議論で大学独自の入学試験や授業料、また大学教育でのカリキュラムの導入が特効薬として提案される。教育に自腹を切る伝統がないこの社会でも私立大学の育成が要求されるようになった。しかし今まで設立されたのはわずか一校である。どれもこれも日本では昔から実現していることばかりである。

数年前ハイデルベルク大学で年間邦貨で一万円あまりの授業料導入で学生の反対デモがあった。取材で出掛けた私から日本の大学授業料の金額を聞いて学生達が本当に困った顔をした。

●「独立行政法人化」

周知のように、日本ではこの一年間国立大学の「独立行政法人化」が議論されている。日本側のこの現状報告に対して、アンドレアス・ヘルトリッヒミュンヘン大学学長は

「幸いなことにミュンヘン大学は法的執行能力をもつ法人で、不動産も所有できるし、今私達がいる建物も大学の所有物である。小さいながら森までミュンヘン大学はもっているし、、、」

と日本側を同情するようにコメントし、大学が所有する不動産を自慢げにならべはじめた。

「、、、そういえば、州議会の建物も大学のものである。大学のなかで審議しているのだから予算面でもう少し大学に親切になってくれれば良いと私はいつも思う」と冗談をとばした。

私には日本の大学関係者に知人や友人が多く、「独立行政法人化」に反対している人がたくさんいる。確かにこれは財政赤字減らしの一環であり、また去年文部省が急旋回したのもナワバリを失いたくない文部官僚の意図が見え透けである。とはいっても、ドイツ側の「これはあきれた」という顔が物語るように「独立行政法人化」推進派の論拠のほうが通りやすい。

●日本の「国立大学」

正直いって、私はこの議論が起こるまで日本の国立大学が法人でなかったことも知らなかったし、その「国立」が何を意味するかもあまり考えなかった。

日本の大学には国立‐公立‐私立の区別がある。この区別をドイツに適用すると公立大学しかないことになる。というのは、分権国家のドイツでは教育主権が州にあり、大学も州立で公立大学ある。日本の国立大学に相当するのは軍隊の将校を養成する国防大学しかない。

分権制であるために中央と地方の区別がはっきりしていない。この国に、ベルリン大学を中央の大学と見なし、例えば地方都市のハイデルベルク大学を「地方大学」と見なす奇妙な人はいない。ベルリン大学はベルリンの町の「地方大学」なのである。とするとこの国には「地方大学」しか存在しないことになる。

ドイツの大学は近代国家成立より遥か昔に地域とむすびついて生れた。それに対して、日本の国立大学は上からの近代化という国策の所産である。とすると、「国立」とは「国策」ということである。法的に見て国立大学が文部省の出張所のような存在であって、それが自明のことにされてきたのも、恐らくこの事情を物語ると思われる。

●分権化と絡めて

ヨーロッパで見ていると、この数年来進行中のグローバリゼーションは国家という単位が弱くなることである。いっぽうこの国際化圧力に対して「地域性」とか、地方自治体とか、いずれにしろ今まで国家より下位にあった公的単位の重要性が強調され、このグローバリゼーションに伴う変革に方向性をあたえる。これは、もしかしたらナショナリズムがもたらした愚行をくりかえしたくないヨーロッパ人の知恵が無意識に働いている証拠かもしれない。

遠くから日本を見ていて、私が不安を覚えるのはこの点である。というのは、人々の意識のなかで強力なのは中央官庁と企業で、ヨーロッパで人々の拠り所となる地域性といった、国家より下位にある公的単位が弱いからである。

以前、久しぶりに会った国立大学に勤務する友人が「文部省の役人は高等教育予算など、娘息子に手渡すお小遣い程度にしか考えていない」と嘆いたことがある。このような文部省が言い出した「独立行政法人化」に対して「絶対反対」で行くべきではないと思う。この問題はすでに日本で進行している分権化の議論と絡ませるべきではないのか。

教育や研究の業績査定となると、当然その基準と、基準を解釈運用する査定委員会のメンバー選考が重要である。この基準設定でも地域性重視を盛り込むことができるし、またメンバーの選定にあたっても大学関係者、中央官庁、更に地方自治体の声が均等に反映する仕組みをつくることもできるのではないのか。「条件闘争」を拒む「無条件闘争」こそ、「無条件降伏」につながるのである。

すでに述べたように、ドイツの大学にも問題は山積みしている。改革も少しづつしか進まない。それでも世論とかメディアでの議論は盛んである。かなり前から、毎年いくつかの雑誌で「大学ランキングリスト」が発表されるようになった。すべての大学が、授業内容・仕方から始まってその大学町の家賃に至る多数の項目を網羅するリストのなかで主要学科ごとにリストアップされ、点数をつけられる。

このようなリストを作成するためには該当大学の学生にインタビューするなど大規模な調査が必要であるが、雑誌のこの号はよく売れるといわれている。この種のリストは大学を選ぶ参考になるだけでなく、世論の関心を大学内で行われることに向けるのに役立つことはいうまでもない。

教育にしろ研究にしろ、大学内部で起こることは社会の未来に重要である。大学ランキングで「偏差値」ばかりに気を奪われるのはそろそろやめるべきかもしれない。(みのくち・たん)

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