執筆者:平岩 優【メディアケーション】

台湾の総統選挙が間近に迫っている。隣国の最高政治ポストをめぐる選挙であり、しかも、東アジアに大きな影響をあたえる台湾と中国の統一(独立)問題にもかかわる政治的なイベントでもある。にもかかわらず、日本のマスコミ報道ではアメリカの大統領予備選の影に隠れて目立たない。

選挙の方は国民党が候補者選びで分裂したため、野党・民進党候補を加えた3人の候補者が横一線に並び混戦が続いているようだ。一方、前の総統選挙でミサイル発射のデモンストレーションによりかえって反感をかった中国は、武力行使の条件に「無期限の統一交渉引き延ばし」(台湾白書)を追加するなどにとどめ、今回は実力行使は控えている。

ところで、その総統選を前に、統一問題を考えるための優れた著作が出版された。以前から私が敬愛している名古屋大学経済学部教授・とぅ(にすい+余)輝彦氏の『台湾の選択』(平凡社新書)である。本書はなぜ台湾が独自の通貨を持ち、独立した関税地域でありえたのかなどを問い、台湾という存在がいかにきわどい偶然の積み重ねの中で存続してきたかを検証している。

また、統一問題を考える際に、一国二制度の香港のケースの成り行きが重要なポイントであることは当然として、東ティモール独立のケースも大きなインパクトを与える可能性があると指摘している。こうした問題について興味のある方は著作に当たってもらうとして、私が著作に触れて感じたことは、われわれの台湾に注ぐ視線がどこかおかしいということだ。

●切っても切れない日台関係

台湾は誰もが知るように、日清戦争の結果から1895年~1945年まで日本の植民地であった。そして、第二次世界大戦敗戦を受け、ポツダム宣言では「日本は(台湾を)放棄するとだけ書いてあったらしい」。中国に返却するとか、国連が統治するとか、いろいろ処理の方法があったのに、つまり、あいまいなままに置かれた。1951年、戦勝国と日本の間で結ばれるはずであったサンフランシスコ条約からは中国が除外され、もちろん台湾も入れなかった。52年には台湾と二国間で日華平和条約が調印される。しかし、この条約は72年、日中国交正常化がなると「日華平和条約は存続に意義を失い終了した」(大平外相の共同声明における記者会見での表明)。それ以降、現在まで日本は台湾に対して、いってみれば政経分離の政策を適用している。しかし、日台の経済関係はきわめて密接であり、しかも、日本は台湾から毎年、年間約170億ドルの黒字をつくりだしているという(とぅ先生は日本の外貨準備の4分の3は台湾から稼いだと述べている)。

だから、今、日本の企業や私たちは中台関係はこのままのあいまいな形でよいとし、経済的にもこのままの方が望ましいとどこかで思っていないか。つまり、本当を言えば台湾という地域やそこに住む人たちへの関心が希薄なのではないか。

とぅ先生は、日本は終戦後台湾の処理にかかわることができなかったが、50年間統治したのだから、台湾とは切っても切れない関係にあるとしている。だからこそ、日本外交は台湾問題を迂回し、経済的利益の追求にのみ始終すべきではないと。

もう10年くらい前になるが、とぅ先生と初めてお会いしたときに履歴についてうかがった。先生は日本統治下の台湾で生まれ、「村岡」を姓として育った。しかし、日本の統治から開放された時、ご尊父から本当の姓は「とぅ」であると打ち明けられた。台湾でも日系植民地企業の経営サイドと現地雇用者との間に入る現地人の管理職には創氏改名が強要されたようだ。

その後、台湾大学を卒業し、東京大学に留学。折しも大学紛争の中で、書き上げた論文が『日本帝国主義下の台湾』(東京大学出版会)であり、矢内原忠雄以来の著作と評価されたという。そして、日本の公立大学への就職が決まった72年、台湾という国は存在しないことになる。とぅ先生は仕方なく就職するために日本の国籍を取得し、「父親がつけた姓」だからと「村岡」姓を名乗る。したがって本来の本姓「とぅ」は今はペンネームである。

『台湾の選択』は冷静、客観的に分析された著述であり、大国の間で翻弄された小国に育った人のルサンチマンは感じられない。しかし、「日本語にしてわずか一九文字の見解(大平外相談話)によって、戦後二〇年も続けられた交流の枠組み、「正常な」日台関係は一瞬にして「終了」することとなった」

という一節だけには、当時、とぅ先生を襲った行き場のない怒りと悲しみがひそかに反映しているような気がする。

日本は元宗主国、日本人だから台湾問題に責任を感じなければいけないと、言いたいのではない。

われわれは祖父母、父母から体ばかりか文化や習俗を綿々と引き継ぎ、深く歴史と関わっている。だから歴史の経緯を振り返って見て、大きな問題を抱える隣国の人々に人として関心を払うのは当たり前のことではないだろうか。もちろん台湾だけでなく、中国の人とも隣人として信頼感を醸成しなければならない。

「アジア共通通貨圏」だの「アジアは一つ」だの最近、また聞こえるが、アジアはヨーロッパよりもむしろ多様な文化や価値観を持った国々が混在している。地道に一人一人が隣国の人たちと信頼関係を構築していくことが、こうした構想の前提条件となるだろう。また、民間レベルでの信頼感が醸成されることで、あるいは日本が台湾と中国の間の調停役を演ずることも可能となるかもしれない。

●北朝鮮も同じアジアの隣人

そのことは台湾だけでなく、また北朝鮮に対するわれわれの見方にも当てはまらないだろうか。もちろん来月から始まる日朝交渉には冷静に慎重に対応しなければならない。しかし、日本人と朝鮮族の付き合いは、一方的な併合を含めて長い。古代から近世まで、さまざまな文化や技術が朝鮮族を通して、日本にもたらされた。

だから、われわれまでが太平洋の向こうのアメリカと同じように冷酷に突き放して北朝鮮をみることはおかしくないか。同じアジアの隣人ではないか。北朝鮮関連の書籍も随分出版されているが、下司な覗き見のような内容のものも多い。また北朝鮮は独裁国家だから危険であるといったところで、肯定するわけではないが、日本もついこの間まで、現人神を元首に仰いで国際的孤立と軍備拡張の悪循環を繰り返していたのではなかったか。

もう6年ほど前のことであるが、韓国の釜山駅前の喫茶店に入り、そこの主人の金さん(従業員はオヤジと呼んでいた)にたまたま朝鮮戦争の話をうかがったことがある。金さんは内戦勃発当時20代後半で中尉、もちろん日本語教育を受けた世代だ。「内戦だから老人、女、子どもが随分殺された」というように壮絶な戦いであったことを改めて認識した。

「八路軍(中国)は手榴弾と竹槍を持ち、靴を履いていないから足が凍傷になって可哀想だったよ」などという話から金さんの人柄も知れた。しかし、「武器といえば日本軍が置いていった三八銃だけだから、使いものにならなくて、一時は釜山まで追いつめられた」とも語った。

その時、私はなんだか申し訳ないような、恥ずかしいような気になった。そうか、わが日本が35年間も朝鮮を統治していて、逃げるように立ち去る時に後に残したものは使いものにならない三八銃だったかと、ふと思ったからだった。もちろん事実はそうではなくて、功罪を抜きにしていろいろなものを残したのだろうが。

話は脱線したがとぅ先生は『台湾の選択』のあとがきでこう書いている。

「2000年に入って以降、台湾の総裁選(3月18日)を皮切りに、ロシアの大統領選(3月26日)、韓国の総選挙(4月)、日本の総選挙(夏までの見通し)それにアメリカの大統領選(11月)が矢継ぎ早に設定されている。ある意味ではアジア通貨危機(97年7月)以降の、そしてそれについての政治的決算が行われようとしているのである。それはまた、21世紀のアジアと世界の門出に新たな鼓動を意味するかもしれない。台湾の総裁選をそのなかに位置づけると、アジアの鼓動と世界の潮流(モメント)がここにオーバーラップしてすでに始まっているのではないか、といってよいかもしれないのである」

つまり、私たちは祖父母や父母の生きた時間を継承しながら、今、こういう時間を生きているのである。

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