執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

きょうは故江守喜久子さんのことを書きたい。亡くなってから21年も経っているが、日本とインドをつなぐ架け橋を担った人だった。戦前から表参道に住んでいた。表参道といっても当時は、ファッションの町ではない。青山に陸軍の練兵場があったぐらいだから、牧歌的な土地柄だったはずだ。

1943年、インドのチャンドラ・ボースがシンガポールに自由インド仮政府を樹立し、インド国民軍の訓練を開始した。将来の幹部候補生として45人のインド青年が陸軍士官学校と陸軍航空士官学校に送り込まれた。

45人のインド人留学生にとって、1945年8月15日の日本の敗戦は大きな戸惑いだった。目標を失っただけではない。3日後の8月18日には尊敬してやまないチャンドラボースの訃報も重なった。全員が死刑になるという風説も広がった。

自由インド仮政府は連合国側に正式に宣戦布告をしていた。日本は無条件降伏しても自由インド仮政府はまだ降伏していなかった。「敵国」の日本占領が始まると、45人のインド人留学生は微妙な立場に立たされた。

出身母体の自由インド仮政府の屋台骨が揺らぎ、頼っていた日本という国も当事者能力を失っていた。その時、留学生の生活の面倒を見、心の支えとなったのが江守喜久子さんだった。

江守さんとインド人留学生との交流は、敗戦の前の年に「陸軍の偉い人がきて、インドから来た青年たちに紅茶をごちそうしてやってくれ」と頼まれたのが縁だった。

スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー(事務局長・林正夫氏)が刊行した「ネタジと日本人」に手記を寄せた江守喜久子さんは「彼らは何れも印度の独立と祖国愛に燃えていたのですが、日本の敗戦とともに、その夢も破れ、連合軍の日本占領によって罪もないこれらの留学生たちが銃殺刑に処せられるという噂が拡がりました」と書いた。

江守さんは茫然自失する敗戦間もない日本にあって、インド人留学生の嘆願運動に奔走するかたわら、彼らを家の近くのアパートに収容して世話をした。当時の食料事情からすれば、自分の家族が生きることすら困難だった。そんな時代に16歳から23歳の異国の青年たちに食べさせることは並大抵ではなかったはずだ。

やがてインド人留学生たちが帰国する日が来た。11月3日である。帰国といってもインド国民軍の幹部候補生である。戦争捕虜並みの扱いで、まずマニラに移送されて、イギリス軍に引き渡され、その後は香港のスタンレー刑務所に収容され、年が開けた1946年1月さらにインドのマドラスの収容所に転送され、2月に晴れて開放された。

彼らが日本を離れるにあたって江守さんの懇願したのはチャンドラ・ボースの遺骨の供養だった。

「おばさん、ネタージは僕たちの希望と光でした。どかネタージの供養をつづけてやって下さい。おねがいです」

ネタージというのは「指導者」とかいう意味であり、チャンドラ・ボースへの尊称である。ちなみにマハトマ・ガンディーの「マハトマ」は「偉大な魂」という意味。インド独立運動でこのような尊称が与えられたのはボースとガンディーだけだ。いまでもインドではネタージといえば、チャンドラ・ボースのことである。

以来、ボースの慰霊祭は毎年、遺骨が眠る杉並区の蓮光寺で営々と続いている。江守喜久子さん亡き後は娘さんの松島和子さんが母親に代わって日本とインドとの架け橋役を担っている。

ボースの遺骨返還運動はスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーの手で細々と続いている。しかし関係者はすべて高齢である。事務局長の林正夫さんは86歳である。筆者は先人たちが築いた日本とインドとの信頼関係をこのまま風化させてはならないと考えている。なんとか次の世代が引き継がなければならない。

きのうはスバス・チャンドラ・ボースの45回目の命日だった。蓮光寺でネタージの慰霊祭があり、80人ほどの参拝者があり、中には駐日インド大使の顔もあった。

「昨年はネタージ生誕100周年でニューデリーの国会議事堂でネタージの銅像の除幕式がありました。しかしインドではまだ、ネタージが死んでいないという伝説もあり、遺骨を迎える雰囲気ではありません。時が熟するまで慰霊祭を続けていただけるようお願いします」と挨拶した。

1998年08月26日 新宿・中村屋がかくまったもう一人のボース 伴 武澄

1998年08月15日 スバス・チャンドラ・ボースと遺骨返還 林 正夫

1998年08月14日 杉並区の蓮光寺に眠り続けるボースの遺骨 伴 武澄