執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

八田與一といっても日本ではだれもピンとこないだろうが、台湾ではいまも農業用水建設の恩人として人々の心の中に生き続けている。台南県烏山頭にはいまもこの明治生まれの日本人の銅像が残り、台湾農業に尽くした逸話は中学校の歴史教科書『認識台湾』に登場し、学校教育の場でも語られ始めている。

6月21日の北國新聞に小さな記事があった。6月20日、台湾の嘉南農田水利会(徐金錫会長)の一行11名が金沢市を訪れ、八田與一記念資料室をつくるため、八田與一の故郷である金沢市に資料収集など協力を求めてきたという。資料室が入る建物は同水利会が約1億6000万円をかけて購入した円形三層の建物である。日本側は石川県の「八田技師を偲び嘉南と友好の会」(代表・長井賢誓県議)が協力することになったと書かれたあった。

ほとんど感情移入のないおもしろくもない記事である。八田與一という故郷の偉人を県民に再認識させる格好の機会を逸したのではないかと思い、北國新聞に代わって八田與一について書くことにした。八田與一については萬晩報事務局長の岩間孝夫さんが、以前から「いつか俺が書く」といっていたが、続編をまつことにしたい。

●アジア最大のダム・用水路建設

八田與一は1886年、金沢市に生まれた。東大の土木工学を卒業後、ほぼ同時に台湾総督府土木局につとめた。56歳で亡くなるまでほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために尽くした。

初めは台北の上水道建設や桃園県の水利事業などに参加したようだが、彼の名前が後世に残るのは、当時アジア一といわれた烏山頭ダムと1万6000キロにおよぶ灌漑用水路の建設にあたり、人情味のある現場責任者として農民に慕われたからである。1920年に着工10年の年月を費やし1930年に完成した工事で、巨大な建設機械がなかった当時としてはとんでもない大規模土木事業だった。しかも場所は植民地である。

烏山頭ダムは、台湾西部の嘉南平野の東方の山地にある。渓流をせき止めた堰堤は1600メートル以上ある。セミ・ハイドロリックフィルという、石や土を組み合わせてコンクリート以上の強度を生み出す石積み工法を用いた。

嘉南平野は台南市や嘉義市を含む台湾最大の平原である。鄭成功が明末に拠点を開き、その後オランダも城を築いたかつての台湾の中心地である。肥沃の地と思われがちだが、平原を流れる河川が少なく、しかも急流だったため、水利としてほとんど機能してこなかった。

このため20世紀になるまで嘉南平野はサトウキビすら育たなかったといわれる。この嘉南平野は八田與一が建設したダムと1万6000キロにおよぶ網の目のような用水路のおかげで台湾最大の穀倉地に変わった。

中華民国新聞局が発行する「中華週報」の最新号によると、烏山頭ダムから轟音をたてて躍り出た豊かな水は、嘉南平原に張り巡らされた水路に流れこみ、みるみる一帯を潤した。当初半信半疑であった農民たちは、眼前を流れる水に「神の恵みだ、天の与え賜うた水だ」と歓喜の声を上げたそうだ。

●夫と一緒に妻もまた台湾の土に帰った

嘉南平原の隅々にまで潅漑用水が行きわたるのを見とどけてから、八田與一は家族とともに台北に去った。八田は太平洋戦争の最中の1942年、陸軍に徴用されてフィリピンに向かう途中、乗っていた船がアメリカの潜水艦に撃沈されて、この世を去った。

3年後、戦争に敗れた日本人は一人残らず台湾を去らなければならなくなった。烏山頭に疎開していた妻の外代樹(とよき)は、まもなく夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口の身を投げて後を追った。外代樹もまた金沢の人だった。享年46歳である。嘉南の農民たちによって八田與一夫妻の墓がその地に建てられた。作業着姿の銅像とともにいまも農民たちの手で守られて、命日の5月8日には現地の人々によって追悼式が行われている。

5年前、八田與一の名前を司馬遼太郎の「台湾紀行」(朝日新聞社)で知った。明治の日本人のスケールの大きさについてはもはや語りつくされているのかもしれないが、司馬遼太郎が書く明治の土木技師たちの姿には圧倒される。

八田與一の東大の恩師の広井勇教授がいった言葉である。「技術者は、技術を通じての文明の基礎づくりだけを考えよ」。札幌農学校で同窓生だった内村鑑三は66歳で亡くなった広井に対して「明治大正の日本は清きエンジニアを持ちました」と弔辞を読んだそうである。八田與一もまたそんな明治人だったはずである。

嘉南農田水利会の徐金錫会長は金沢市で、八田與一の遺した嘉南大用水路について「約70年の歳月を経たいまも、平野に飲料水や農・工業用水を供給し続けている」と感謝の念を表明した。

斎藤充功著「百年ダムを造った男-土木技師八田與一の生涯」(時事通信社)によれば、台湾の李登輝総統もまた「台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、嘉南大用水路を造り上げた八田技師がいの一番に挙げられるでしょう」と語っている。