執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

4月上旬、遅番の勤務で家の片づけをしていたら、「ばんさーん。すんまへん」と隣りの谷さんの声がした。

玄関にでると、回覧板を持った谷さんが立っていた。

「今月から町内会の世話役になりました。よろしうに」

「そうそう、この町内会は順番でやってますさかい、来年は伴さんが世話役ですから」

そういって回覧板を渡して帰っていった。

谷さんは70を少し超えた年で、病気の奥さんを一人で面倒をみている。2年も隣りに住んでいながら、以前なにをしていたのかも聞いたことがない。時々「おすそわけです」といって果物や惣菜をもってきてくれたり、旅のおみやげを持っていくうちに親しくなった。

清廉な人柄で、毎朝、うちの前の庭まで掃き清めてくれるから、頭が上がらない。たまに早起きして谷さんの家の前からその向こうの駐車場の前まで掃除することがある。といっても30メートルにすぎない。

いつもお世話になっているから、当然のことだが、谷さんに会うと「いつもすんまへんな」といって頭を下げる。これがたまらないから京都では早起きの癖がついた。

最初は京都人特有のブラックユーモアかと思っていたが、それは思い過ごしだった。いつまでたっても谷さんの態度に変わるものがない。日々のご近所の会話ってもはこんなにすがすがしいものか。そんな思いで日々が過ぎ去った。

京都ですぐ気付いたのは、家の周りを掃き清めているひとを多く見かけることだった。祇園だとかお寺さんだとか文化財に指定された周辺の話ではない。ごくふつうの住宅地での風景である。

次いで、賀茂川にごみが落ちていないことにも驚いた。大都会の真ん中を流れる河川は得てして生活用品の廃棄場と化している。ジュース缶どころか、発砲スチロールのかたまり一つ見当たらない。

不思議なことだと思っていたら、まもなく町内会から「賀茂川清掃の集い」の案内をもらった。ははーん、そういうことかと納得した。賀茂川を散策すると、そんな町内会の人々が河岸のごみを拾っている姿を目にするだろう。

ここまで書くと多分に感情移入に違いないと批判されそうだ。だが、歴史が長いということは、土地に対する愛着につながり、だれからともなくみんなで町をきれいにしようという発想が生まれてくることだけは間違いない。京都に住んでいた時は、誰が何といおうとそう一人合点していた。

東京から遊びに来た友人にそんな話を何遍もした。「ちょっとおまえも、朝のすがすがしさを味わえ」といって家の前の掃除を強要したこともある。だいたいは東京といっても下町ではなく、ベッドタウンに住んでいるから「箒なんか持つのは何年ぶりだ」と言って喜んでいた。

我が家に泊まったのは男たちばかりであり、そもそも朝ぎりぎりまで寝床に入っているくせのついた人種ばかりであるから、翌朝、箒を持った友人は一人もいなかった。

●賀茂川から緑を奪った京都市の浚渫事業

京都のバスもまた、どこの都市のバスとも同じように「吊革におつかまりください」「移動中の席の移動は危険ですから」などアナウンスがくどい。ただひとつ違うこんなアナウンスがあった。

「みんなの力で京都を世界で一番美しい町にしましょう」

町内会が偉ければ、行政もなかなかなものだと思っていたら、どこの自治体でもやっていることらしい。上京して渋谷のハチ公前で待ち合わせをしたら、そこでも同じような文言が電光掲示板で流れていた。そこでも印象は「無駄なことをやりおって」というものだった。

2年間の京都住まいで一番頭にきたのは、京都市が賀茂川を浚渫するというニュースだった。賀茂川は日本の河川ではめずらしく、市内を流れる河床が階段状になっていることだ。

数百メートルごとにある段差から水が流れ落ちる様子はひとつの風情で、ところどころにある洲には葦などの植物が生えていて、鳥や魚の絶好の生息地となっている。この洲がじゃまだというわけである。増水時の川の流れの妨げになるというのである。

マスコミが取り上げ、環境団体が反対したが、この4月から北大路から南の賀茂川で浚渫は敢行された。行政というものは不思議な組織だ。緑が繁る洲とシラサギの乱舞は、賀茂川の風景の一部である。観光資源にもなっているその賀茂川の美をブルドーザーで踏み荒らしたのだから、なかなかのものである。京都市役所の言い分はこうだった。

「じきにまた土砂が堆積して洲ができ、緑も回復しますよ」

筆者は邪推する。景気回復のための公共事業予算が大幅に上積みされ、予算の処理に困った挙げ句、「賀茂川の浚渫」という妙案が担当部署で出て「ええやんか」となっただけのことである。行政の困るところは1度、予算がつくと来年もまた同じことを必ずするということである。