実在した少年時代のヒーロー・ハリマオ
執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】
昨年8月にチャンドラ・ボースと新宿中村屋のもう一人のボースについて書き、続編をという反響をたくさんいただいた。今回はチャンドラ・ボースの周辺に出没するハリマオという人物について紹介したい。ハリマオは中年以上の方は石森章太郎のマンガやテレビ番組を通じてよく知っている少年時代のヒーローの一人のはずだ。
1998年08月26日付「新宿・中村屋がかくまったもう一人のボース」
1998年08月15日付「スバス・チャンドラ・ボースと遺骨返還」
1998年08月14日付「杉並区の蓮光寺に眠り続けるボースの遺骨」
少年時代、筆者はハリマオは単なる物語の人物だと信じていた。だが、25年ほど前、父親から藤原岩市著「F機関」という1冊の本を渡され、本の中で実在したハリマオに対面した。
「F機関」については上記にすでに記した。太平洋戦争のマレー南下作戦のためにつくられた英印軍に対する謀略機関である。戦前の日本の機関としては傑出した「謀略機関」だったと思っている。
●色白の小柄な美少年だったハリマオこと谷豊
少年時代の物語「怪傑ハリマオ」の舞台は東南アジアだった。ヒーローはハリマオと名乗り、国籍は不明。サングラスをかけ、頭に黒い布を巻き付け、ズボンはラッパだった。そんなハリマオが悪党を次々と打ちのめす、いまはなき勧善懲悪のドラマだった。不思議なことにドラマに登場する悪役はだいたいが中国人か白人だった。
ところが、写真で見る実在したハリマオはまったく違っていた。色白の小柄な美少年だった。本名は谷豊。れっきとした日本人だった。若かった筆者の心をときめかせたのは、藤原岩市氏がハリマオについて、「マレー人3000人を配下にジャングルを縦横無尽、英国の富をかすめてはマレー人に尽くすという義賊」として描いていたことである。
戦前のマレーシアで日本人が数多く住み、生活していたことも大きな驚きだったが、そんな日本男児が当時、マレーシアにいてマレー人たちの信頼を勝ち得ていたということであった。
谷豊は1910年、福岡県に生まれた。父親は谷浦吉。若いころから海外雄飛の夢を抱き続け、いったんはアメリカに渡り、理髪の修行を積み、やがて結婚して東海岸の寒村だったクアラトレンガヌという町に移り住み、バーバー・タニを開業する。
浦吉がトレンガヌに渡ったのは1911年だから、豊はまだ1歳である。当時のトレンガヌには日本人が30人ほど住んでいたという。バーバータニはそこそこ繁盛し、谷一家は現地社会に融和しながら平和な日々を送っていた。当然ながら、日本人学校などというものがあるはずもなく、豊は3人の妹と弟とともに、マレー社会にどっぷりつかり、成長した。
そんな平和な生活を破ったのは満州事変だった。1931年である。日本が中国大陸で仕掛けた戦争だったが、華僑が多く住む英領マレーにも日中対立がもたらされ、華僑による日本人襲撃が少なからず起きていた。中国大陸と違ってマレー半島には日本人を保護する軍隊はいなかった。
翌1932年、トレンガヌでも起きた華僑暴動で、谷家の末娘の静子が暴徒に惨殺されるという痛ましい事件が起きた。逃げ遅れた静子が理髪店の二階で殺された上、首を切られたのである。
●3000のマレー人を配下にした義賊?
「F機関」などによると、妹の死に直面し復讐を誓った兄の豊は、忽然とジャングルに消え、数年後には数千人のマレー人を組織する盗賊団としてイギリス側から恐れらるようになったとされる。マレー人たちはだれかれとなく豊をマレーの虎であるハリマオと呼ぶようになっていた。一説によるとイギリスはハリマオの首に懸賞金をかけたが、マレー人には義賊に映っていたから捕まることはなかった。
ところが、ここらの事情もどうも正確でなかったようだ。ハリマオの足跡を克明にたどった中野不二男著「ハリマオ」によると、静子が虐殺されたとき、豊は日本の徴兵検査を受けるため日本に来ており、マレーに戻ったのはその2年後となっている。
「復讐を誓って忽然とジャングルに消える」にしては時間の経過が長すぎるのだ。
パスポートの発給記録から、2年後の1935年以降に日本を出国し、シンガポールに向かったことだけは確かなようだが、豊はトレンガヌに帰ることなく、マレーのジャングルに忽然と消え、マレーに帰国後のF機関に見出されるまでの6年間の足跡は定かでない。
歴史は突然、第二次大戦の開戦前夜に飛ぶ。「3000人のマレー人を配下に置いた日本人義賊」の存在は当然、陸軍参謀本部の知れるところとなり、バンコクにあった参謀本部の出先機関によるハリマオ探しが始まるのは1941年秋である。
参謀本部の意向を受けた神本利男という民間人がバンコクに潜入し、ハリマオ工作を開始する。当時、ハリマオは部下の無銭飲食の責任を取らされてタイ南部シンゴラの監獄に放り込まれていた。幸いにも、その人物がハリマオだと知っていたのはマレー人たちだけだったからイギリス側に引き渡されることもなかった。
神本利男は中国の武術である武当派拳法の達人で中国人の黒社会にも名が知れていたため、東南アジアでの活動は容易だった。神本は、タイ側から鬱蒼たるジャングルを超えて、国境近くのカンポン(村)にマレー人社会の長老だったマホマッド・ヤシンを訪ねる。ヤシンはメッカ巡礼を終えたハジだった。ハリマオの所在を聞き出し、タイの監獄から救出する。
ハリマオのことを書いた本はいくつかあるが、ハリマオの救出劇を描写した書籍は1冊しかない。マレーシア在住の土生良樹氏が書いた「神本利男とマレーのハリマオ」(展転社)だけである。民族を超えた義侠心の世界が登場し、まゆつばかと思わせるが、まさに三国志や水滸伝の講談本に出てくるようなやりとりは痛快である。
●歴史に60日だけ登場したハリマオ
とにかく神本利男という男の説得で、マレー人として生きることを決めていたハリマオが日本軍に協力することになったことは事実のようである。ハリマオ工作を指揮した藤原岩市氏の「F機関」にも出てくることである。
ハリマオが3000人ものマレー人を配下に置いていたというのは白髪千丈のたぐいだが、ハリマオという日本人がマレーの長老たちから非常に信頼されていたことはまんざらうそではない。
マレー南下作戦で、ハリマオと配下のマレー人たちに与えられた任務はジャングルを先回りしてイギリス軍が橋やダムに仕掛けた爆破装置を解除することだった。F機関の任務は英印軍内インド兵を日本側に投降させることが一番大きな任務だったが、ハリマオ工作もまたジャングルに不案内な日本軍にとって重要だった。
ハリマオたちの戦果がどれほどだったかは戦史は一切明らかにしていない。そのハリマオはシンガポール陥落の直後の1942年2月、マラリアのためジョホールバルで急死する。日本との関係はたった2カ月だった。
ハリマオの存在が初めて日本にもたらされたのは、1942年4月3日である。遺骨が藤原岩市氏の手で福岡に帰国していた家族のもとに届けられた時からである。その日から日本の新聞はトップ扱いでハリマオこと谷豊を国民的英雄に祭り上げ、翌年にはハリマオの映画まで上映された。
日本でのハリマオ伝説はその日に始まるため、戦時中の国民への戦意高揚を目的にしたことは否定できない。もちろん国の宣伝工作に使われた面は否定できない。それでも筆者がハリマオにこだわるのは、戦前の一時期ながらマレー人に成りきった日本人がいて、マレー社会のなかで信頼されて生き抜いていたという事実である。
先に講談本と書いた「神本利男とマレーのハリマオ」は、著者の土生良樹氏がマレーシアのタイ国境近くに住んでいたアブドル・ラーマンという長老からの聞き語りが柱となっている。ハリマオのかつて部下で最後まで行動を共にした人物であるだけに、ハリマオの真相に迫っている。
ラーマン長老はもはやこの世にいないが、マレー人が語るハリマオ証言を読むと、やはりハリマオ伝説は本当だったのではないかという気がしてくる。戦後、アジアで経済的に成功した日本人は数多い。だが、ハリマオのような存在をいまのアジアで捜すのは難しい。