日本の商店街の行く末
執筆者:平岩 優【メディアケーション】
もう6~7年前になるが、表面的ではあるが都下や東京周辺の都市を回ったことがあった。市の商工課を訪ねると、判で押したように鉄道駅に近い昔からの商店街の衰退が問題になっていた。主な原因はどこも同じで、駐車場がないために主要道路沿いにできたロードサイドのDCに客を奪われているとのことだった。
その頃、わたしの住む杉並区の西荻窪という地域も例外ではなく、駅前の小さな商店街は歯が抜けるように、店を畳む商店が増えていった。
●瀬戸大橋のたもとで見た商店街の荒廃
昨年の11月、瀬戸大橋の出入口にあたる倉敷市の児島市に出かけた。ここには瀬戸大橋ができた89年頃に訪れたことがあり、約10年振りになる。その時はこの児島駅から瀬戸内海に下った下津井という地域で街並みの保存が行われていて、その様子を見にきたのである。
下津井は、昔、北前船の寄港地で栄えたところで、老朽化し傷んではいたが、ニシンや昆布を貯蔵していたなまこ壁の蔵などが残っていた。当時はこの下津井地区も含めて児島には、瀬戸大橋をバネにした観光誘致の熱が漲っていた。たとえば、児島と下津井を結ぶ市電に世界中の市電を集めて走らせようなどと言うプランもあった。
全国津々浦々で、リゾート構想が熱病のように蔓延していた時代である。しかし、10年振りに降りた児島駅の周囲は閑散とし、聞けばその市電も廃線となったという。駅の近くには大型店舗が何軒か出店していたが、人通りも少ない。
用事が済み、時間が余ったので、駅から15分ぐらい歩いたところにある、この辺の塩田王といわれた野崎家の旧宅を見ることにした。野崎家の屋敷は水琴窟まであり、なるほど文化というのはこうして財のあるところに、塩のように結晶化するのだなあと、感心した。野崎家から出てすぐに、大きなアーケードが覆う大きな商店街がある。
しかし、足を踏み入れると、そこは長い坑道のように暗い。抜けるのに10分以上もかかるような大きな商店街は、3分の2以上の店舗が表を閉ざし、本来なら買い物客が群がっているウイークデイの夕方5時頃であるのに、人が歩いていない。異様な風景だった。ふと全国の地方都市でこのような風景が広がっているのではないかと、思えた。
10年ほど前、この児島駅に降りたとき、塩田の跡地に新しく建てられた街並みということもあるが、まるで模型のように温もりがない街だとおもった。当時、倉敷市で街並み保存と現在の暮らしを両立させることに尽力している「古民家再生工房」という建築家グループがあり、その方たちに、模型のような街並への疑問をぶつけてみた。
このグループは家屋の外装はそのまま保存し、室内は現在の生活に支障がないように改築するという手法で、いい仕事を手掛けていた人たちである。彼らは、この新しい街並みについて、「ここに住んだこともない中央からやってきた人たちが、何回か足を運んだだけで再開発のプランを作るから、ああいう街ができる」と答えた。
場所というのはそこに暮らしている人たちの生理のようなものが滲んでいて、いい加減なプランは街を立ち枯れさせるし、よそものの発想でも、その生理と拮抗するものであれば、街を繁盛させると思う。寒々しい商店街を歩いていて、模型のような街づくりと廃れた旧商店街が交錯していた。もちろん、商店街の衰退はそのせいばかりではないのだろうが。
10年前、倉敷のアイビースクェアのホテルに宿泊し、その居心地のよい空間に感心した。明治に建てられた倉敷紡績の工場跡をアイビースクェアとして再生したのは、著名な建築家の浦辺鎮太郎氏で、聞けば地元出身である。初めて観る大原美術館の収蔵作品も印象派からアメリカの抽象表現主義までと幅広くコレクションされ、素晴らしいものだった。
当時、その倉敷の中心街からタクシーに乗り、水島コンビナートを通って、下津井に行った。車窓から初めて見る水島コンビナートにも圧倒された。おそらく100年経ち、もしこのコンビナート跡が残っていれば、産業博物館として倉敷最大の観光名所になるのではと思ったほどである。
水島コンビナートから下津井に至る海岸線は舗装道路が走っていた。リゾート、リゾートと言っているが、日本の各地ではすでに道路が海岸線を消し潰し、海浜リゾートのロケーションなどないではないかと考え、滑稽であり何やら悲しい気分になった。
●ドン・キホーテはDC版路地の商店街
だいぶ前に、博報堂生活総研の関沢英彦さんという人にシルバービジネスについて話をうかがったことがある。オモシロイ話が聞けたが、なかでも印象に残っている話がある。島根県あたりは日常茶飯に抹茶を飲む習慣があるという。
そこで、関沢さんは高齢化時代にも、たとえばおいしいお茶と和菓子のマーケットがあり、若い人のように量をたくさん食べないから、少量でも贅をつくした高価な和菓子が有望かもしれないと言った。
いま思うと、これが庶民文化ではないか。お茶もお菓子も、若いときからおいしいものを食べていなければ、味がわからない。それは地域の文化にもつながるものであろう。
一方、会社の帰りに必ずコンビニに寄る若い女性に聞いた話によれば、アイスクリームやチョコレートは毎回のように新製品が並び、1週間も行かなければ、ラインアップが代わり、2度と見かけないものもある。
そこで、200円ぐらいの少額なので、強迫観念に追い立てられるように毎日、新しいものを試してみるそうだ。まるでテレビではないか。見なければ済むのに、スイッチを入れれば、さまざまなフレーバーで包まれているが、食べてみれば同じようなものを、飽きもせずに口に運ぶことになる。
もし、これを新しい庶民文化と呼ぶのであれば、商店街を形成する個人商店が生き抜くのは難しいかもしれない。いや、それは庶民文化ではなく、平準化された消費文化といった方がいい。
それでは消費文化のなかに商店街再生のヒントはないのか。エスニックタウンと言われる新宿の職安通りの近くに、不況下でも売り上げを伸ばしているというDCのドン・キホーテの店舗がある。この近辺には中国や韓国など食材の店があったり、何か自由な空気が流れているようで、よく出かける。褒められたものではないが、南米のおねえちゃんが豪快に万引きしているのにも出くわし、変に元気づけられる。
ドン・キホーテものぞいてみるが、いつも客で一杯である。店内は迷路のように先が見えず、両側を商品に囲まれた通路を進んでいくと正面に商品が積んであって行き止まりだったりして、一度店内入ると出口にたどり着けない。その迷路の奧で、若いカップルがキスをしていたりする。
なるほどと思った。つまり、この空間はかって路地のような場所にあった商店街の再現ではないか。休日や暇なときに、家族で狭い商店街をそぞろ歩いて、特別欲しくないものでも、目に付いたらなんとなく買ってしまうという買い物の楽しみである。10円玉を握りしめて、駄菓子屋をのぞき込んだいた子供の心境に近いかもしれない。
しかし、現在ロードサイド店に車ででかけ、必要な食品、日用品を買い出しする消費者が、こうした買い物の楽しさを思いだし、商店街に回帰する前に昔の商店街はもう存在しないかもしれない。
●商店主にもニューウェーブ
ところが、ここ1、2年でわたしが住む地元商店街にニューウェーブとも呼べそうな新しい自営業者がぼつぼつあらわれてきた。これは地価が下がったからである。たとえば、「ごはんや」という和食とお酒の店は、まだ出店してまもないが、20代の女性店主が看板メニューのごはんや魚、野菜料理に腕をふるい、繁盛している。
本棚の間にテーブルと椅子をセットし、コーヒーやお酒をだす古本屋もある。ビールやコーヒーを飲みながら古本を手に取る客も多く、詩の朗読会なども催され、中高年から若者までに評判ががいい。沖縄のお菓子を製造販売する小さな店もあり、ここにも固定客がついている。
これらの経営者はまだ、20代から30代前半の若い人たちで、たぶん自分の店を持ちたいと頑張ってきた人たちであろう。だから既成観念に捕らわれず、商品やサービスに工夫があり、商売に熱心である。
また、わたしが利用している酒屋さんも、こちらは後継者であるようだが、近くの同業者がコンビニに転身、廃業する中、ワインの品揃えに力を注ぎ、若いお客さんを集めている。店の奧にはワインクーラーを設け、休みを利用して夫婦でフランスのワインの蔵を訪ね、現地の写真を添えてお薦め商品を陳列するなど工夫もこらす。
最近、若い人に聞くと、将来、自前の店を持ちたいという人が多いように思える。とくに、女性に多く、目標を定め勉強したり、修行している。この人たちはアントンプレナーなどと呼べないとは思うが、興味のあることを(趣味ではない)生業として、組織に属さず自活していきたいと考えている。
しかし、バブル崩壊までは、こういう人たちが店舗を借りて、商売できるような地盤は都市部には用意されていなかった。ところが商店街が寂れ、廃業する商店が増えたいま、彼らにチャンスが巡ってきた。また、この人たちは商店街にとっても、再生の切り札になるような気がする。
現在、多くの商店街では高齢化が進み、昔ながらの商売のやり方から抜け出る気力も体力もない。だから、すでに崩壊した地縁などあてにせず、商品とサービスで勝負する新しい外の人材を導入しなければならない。既得権益を守るために同業者の出店を嫌うようでは、活気は戻らない。
むしろ、新しい外からの人材に運転資金を融資し、育成するぐらいの気持ちがなければならないだろう。空き店舗があれば、商店街全体で若いテナントを募集し、事業計画を審査し、無尽のおカネを融通するぐらい度量があってもいいのではないか。そこから根腐れした古い地縁に替わる新しい地縁が生まれるチャンスもあるだろう。
わたしの生家は自営の商店であったが、当時一般的であったように、子供たちは外に出て誰も跡を継がずに、10年以上前に廃業した。父親は戦後すぐに新開地である、その土地に店をもった。ちょっと頑張れば、みんな店をもてた時代である。今はよっぽど特殊な地域でなければそうではないだろうが、小学校の級友の半分以上は商店の子供だった。
だから、家の生業によって、魚屋、下駄屋、自動車修理業、電気工事業ならゴムの臭いと子供たちに匂いがあった。当時、高度成長期に入り、東京の端の街にも変化が訪れ、住宅不足を解消するために、公団住宅が次々と建てられ、街は一変した。当時の言い方では東洋一の団地だった。
余談であるが当時の日本には東洋一がたくさんあった。わたしの級友の一人もそんな団地に住んでいて、遊びにいったことがあるが、鉄筋の建物はもの珍しかったが、団地サイズの空間がひどく窮屈に感じた。
亡父がそうした団地について、「町はいろいろの職業の人が住んでいるから町なので、同じ職の人が集まって住んでも、町ではないよ」と語ったことをいまでも覚えている。街というのは、異質な人同士がブレンドされてその土地柄を醸し出し、だからいかがわしい面もある。
別にノスタルジーから、こんなことを言っているのではない。子供や若い人に、東京の有名大学にいって一流企業に就職するという選択肢しか示さなかった、ここ何十年かの日本社会を異常と感じるからだ。
そして、車でDCにでかけ同じような商品を大量消費する。商店街は自分たちの怠慢も省みず、地域振興券を大型店舗で使えないようにと地方議員にねじ込む。こんなことでは老後、おいしいお茶と和菓子を楽しむような生活はできないと危惧するからである。
平岩さんのホームページ 環日本海経済通信は、http://www.lares.dti.ne.jp/~yuh/index.html
平岩さんへメールはyuh@lares.dti.ne.jp